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南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』新潮文庫、2011年9月

 

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

◇苦しい胸の内を聞いてくれる人がいないことこそ自殺の原因
  • 日本には、毎年三万人以上の自殺者がいるといいます。それだけ孤独な人が多いということです。孤独というのは、物理的に一人でいるということではありません。 誰にも気にかけてもらえない、誰にも認めてもらえない、自分の苦しい胸の内を聞いてくれる人がいない、ということです。 それは、自分の思いこみであることが多いのですが、その思いこみには、その人なりの根拠があるのです。そこから離れることができないから苦しいのです。 自分に対する見方が狭いというのは、自分自身を離れて見られないということです。 自分という存在を別の視点から見ることができない。これは実際、大変難しいのです。 「自分を見る」とはどういうことかと言うと、自分と他者との関係を見るということです。それは広く言えば、自分と社会との関係を見るということでもありますが、これには「第三の視点」がいります。しかし、これはそう簡単にもてるものではないから、人間は苦しいのです。 私は、この第三の視点をもっ上で、仏教がなんらかの役割を果たし得るのではないかと考えています(27ページ)
◇ 人の個性は出発点にあるものではなく、結果として現れるもの
  • 人の個性というのは、原因ではなく、結果です。何回も同じようにやらせてみたら、結果的にこの人はこういうふうにやるということで認知される、それだけのことです。 したがって、いちばん個性的な集団というのは、実はルールのきついところに放りこんで同じことをやらせたときに、きわだって出てきます。 禅僧に個性的な人間が多いと言われるのは、ガチガチの規則に縛られる修行道場の中でやってきたからでしょう。同じことをやっているのに、なぜこうも違うのか、ということになるのです。 逆に、いちばん没個性になりやすいのは、何でも好きにしていい、という規則のゆるい集団です。 好きなようにしていいというのが、かえって没個性になるのはなぜか。みな、自分の好きなことなどハッキリわからないからです。好きなことというのは、教わらないかぎり、わからないようにできているのです。 何が好きかということは、実はサンプルを出されたり、教育をきれないかぎり、絶対にわからない。(39ページ)
◇「自己責任」、「自己決定」ほどうさんくさい言葉はない
  • 「本当の自分」という言葉を口にする人の話をよくよく聞いて、要は何を問題にしているかと考えてみると、「いまの自分をどうしたらいいか」を教えてくれる何か、決定の根拠になり得る何かを求めているようです。 いまは、自分で何かをしなければいけないと強調する社会です。 また最近の風潮では、何かにつけ「自己責任」や「自己決定」などと言われます。 でも、決定や選択をするには、その判断の根拠となるものが必要です。 これはそう簡単には見いだせない。 だから、不安になるのでしょう。 つまり、自由であり、自己決定をするということが、実はものすごく重荷になっているのではないかと思うのです。 しかし、「自分」というのが自分の手に負えるものだと思っていること自体が、大きな誤解です。 私には「自己決定」とか「自己責任」という言葉がうさんくさいと思えて仕方がありません。(82ページ)
◇「本当の自分」ではなく「誰が大切なのか」を考える
  • 「本当の自分」などどうでもいいと思うこと。 「自分はわからなくて当たり前だ」と決めてしまったほうが、ずっと楽に生きられるはずです。 それより、いったい自分は何を大切にして生きたいのか、誰がいちばん大切な人なのかを考えるのです。 つまり、「問い」の仕方を変えるのです。自分とは何か?などと考えるのではなく、自分にとって大切なものとは何か? 自分にとって大切な人とは誰か?自分がいちばん大切に思うことを大切にし、そして大切な人を裏切らないようにしていけば、自然に道は開けるはずです。 自分の輪郭というのは、そうやって人と付き合い、経験を積んでいけば、おのずからできてくるのです。むしろ他人との関係を考えたり、他者との縁を大切にする中で、自然に見えてくるものがあります(92-93ページ)
◇大志を抱くのではなく、まず「やってみる」ことから始めよう
  • 私は、悩む若者には、何でもいいから、まずはやってみることをお勧めしています。 「自分らしい」生き方なんて、難しいことは考えない。就職であれば、大切なのは、何だったら自分は人の役に立てるのかを考えることです。 自分に向いた職業とか「自分らしい」仕事を・・・などと言っていては始まらないのです。 それに、趣味ならいざ知らず、職業や仕事というのはそういうものではないでしょう。 だいたい、何もしないうちから、自分に向くも向かないもないでしょう。(94ページ)
◇自殺をするのは「生きたくない」ことが理由だが、そもそも人生は苦しいもの
  • けっして「死にたい」から自殺するのではなく、「生きたくない」から自殺するのだと思います。 つまり生きていることに不満があり、生きるのが嫌になっているだけであって、死にたいわけではない、むしろ本当は「よりよく生きたい」。したがって、よりましな生があるのだと思えたなら死なないのではないかと思うのです。 実際、借金苦のある人は借金がなくなれば生きているでしょう。 病苦の人は、病気が治れば生きているでしょう。 そして孤独な人は、人に理解されれば生きているはずです。 生きていて理解されたと思えば、生きていくことを選択するでしょう。 みな、生きているのがつらくて苦しいから、もう生きたくない、と考えるわけです。 よりましな生がないと思うから、この世ではもうダメだと絶望するのでしょう。 しかし、私が仏教から学んだのは、人間というのは生きていれば楽しくて嬉しくて結構なことよりも、苦しくて切なくて悲しいことのほうが多い、そう考えることがまず大前提なのだということです。(107ページ)
◇自分の問題に向き合うことの難しさ
  • 問いを問題に構成し直す、言語化する、というときに常々難しさを感じるのは、人間、自分の問題にはなかなか向き合えないということです。 「問題に向き合えない」と言ってしまうと、向き合う余裕があるのに向き合わないように聞こえてしまいますが、選択の余地があるわけではないのです。もう向き合う力がないということです。 向き合いがたいというか、それこそ「生きがたい」のでしょう。(115-116ページ)
◇肯定し、肯定される関係を常に努力して作ること
  • 誰でも、肯定されたいという気持ちをもっています。 子供が生まれたときに全面的な肯定をあたえられることはもちろん、大人になってなお、自分のあり方を誰かに肯定してほしいと思い続けているのです。 それを否定されたら、どれだけ切ないか。 ところが、この問題の根が深いのは、ある一人の人間から永遠に肯定されるということはあり得ないのだという厳然たる事実があることです。 自分が他者と関係を作る中で、肯定し、肯定される関係を常に努力して作らないかぎり、たとえ親子であろうとも、一人の人間から全面的な肯定を一方的に受けるというのは、神ならぬ人間のできることではありません。 なぜなら、その肯定をする人間の側も、自分を誰かに肯定されたいと願う存在だからです。 完全な自己肯定で生きている人間は誰もいないのです。(151ページ)
◇自分を変えるものは生活スタイル以外にはない
  • 「自分を変えたい」と言って座禅に来る人がいます。 しかし、こういう人はほぼ百パーセント、変わることはありません。 変えたい変えたいと考えているだけで、けっして変わることはないのです。 私には確信があります。 人間のあり方というのは、いくら頭の中で考えをめぐらしたところで、絶対に変わることはありません。 ある人のあり方を根底的に変えるのは、生活スタイルです。 一生懸命本を読んで学んだつもりになっても、あるいは変わりたいと願っても、生活スタイルを切り換えないかぎり、人間のあり方は切り換えられないのです(216ページ)
◇「処世術」ではなく「処生術」:より深く考えてみる<
  • 人間の場合、ゴールというのは、自分が立ち止まったところにあります。 他人が引いたゴールは、自分のゴールではないのです。 宗教は、なんらかの真理を体得するためのものではなく、生きがたい人生を最後まで生き切るため、少しでも上手に生き抜くための導きや杖、いわば「生きるテクニック」として、活用すべきだと私は考えています。 仏教というのはその枠組みの一つ、坐禅というのはその方法論の一つだと言えるでしょう。 ただし、仏教者にはいわゆる「処世術」を教えることはできません。「生きるテクニック」というのは、世渡りのための「処世術」ではなく、自らの困難な生に対処するための「処生術」と考えていただくといいかもしれません。 たとえば、職場にイヤな人がいるというとき、当座の対策を孝えるのは「処世術」でしょう。 しかし、そもそも他人を「イヤ」だと思うのはどういうことか。自分にとってどういう場合に、どんなふうに「イヤな人」だと感じるのか、それを考えることから始まるのが「処生術」です。(229-230ページ)

■読後感

 「生きにくさ」を感じる人が多くなり、自殺もひと頃よりも減ってはいるが依然2万人以上と決して少なくない数字であるが、そもそも人が生きること自体、喜びよりは苦しみが多いものであり、これにどう対応していくか、ということこそ生きる術となることを説いている。

自分が何かではなく、大切な人が誰なのか、を考え、肯定し肯定される関係を作ること、また、借り物の知識に頼るのではなく、生活スタイルこそが自分を作るものであるという意識のもと、自分を俯瞰できるよう心がけることなど心に残る内容でした。

自分探しはやめて、他人のために何ができるかを考える、というところなど、内田樹さんと近い考え方のようにも思われました。