柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社学術文庫、1990年7月

 

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

 

 ■内容【個人的評価:★★★★-】

◇テクストに向き合うとは、ざまざまな評価や作者の意図すら前提せずに読むことである
  • しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにならない。”作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの意味である。(9ページ)
◇『資本論』の卓越性は、商品あるいは価値形態を見出したこと
  • 資本論』という作品が卓越しているのは、それが資本的生産の秘密を暴露しているからではなく、このありふれた商品の“きわめて奇怪な”性質に対するマルクスの驚きにある。商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動き出し人間を拘束する一つの観念形態である。ここにすべてがふくまれている。既成の経済学の体系は、ありふれた商品を奇怪なものとして見る眼によって破られた。マルクスは、初めて商品あるいは価値形態を見出したのだ。(14~15ページ)
デモクリトスエピクロスの違い-偏差への着目-
  • たとえば、デモクリトスが、アトムの運動が必然的であり、決定的であると考えたのに、エピクロスはそこに偶然、逸脱、偏差があると考える。このわずかな変更は、今日不確定性理論を持つわれわれには先駆的に見えるが、マルクスがそれに注目するまで馬鹿げた変更としか考えられていなかった。・・・デモクリトスは自然界を決定論によってわりきろうとする。エピクロスがそれに対して偏差を強調したのは、この偏差にこそ「自己意識」が、したがって人間の主体性や自由が生じる根拠があるからだ。これがマルクスの見解である。(17ページ)
◇言語と商品の共通性とその謎
  • 言語は、物理学的な音声でもなければ、またなんらかの観念を表示したものではない。逆に、言語があってはじめてそれらが存在する。すると、言語を言語たらしめるものはなにか。同じ問いを商品に向けなければならない。古典経済学は、商品とは使用価値と交換価値であるという。だが、それらは、まさにあるものが商品形態をとるがゆえに存在するものでしかない。語は音声と概念の結合であるというのも同様である。そのような分析に終わっているかぎり、商品あるいは言語の謎は見えない。というよりも、商品が商品であることを忘れさせる力をもつところにこそ、商品形態の謎がある。(27~28ページ)
  • ところで、言語を言語たらしめる条件を析出し、それを言語学の対象として明確化しようとしたソシュールは、いわば空気の振動を音声学の対象として除外する。それはマルクスが具体的な商品の考察を商品学として除外したのと同じである。その結果、ソシュールは、言語の本質を、意味するもの(音韻)と意味されるもの(概念)の結合に見出している。しかし、それはすこしも新しい認識ではない。彼の新しさは、言語を価値としてみようとしたことにある。つまり、それは、言語を「意味するもの」の示差的な関係の体系としてみることであり、意味はアプリオリにあるのではなく差異づけの体系の中で、いいかえれば、語と語の間からあらわれると考えることである。このことは、語を単独で切り離して考えているかぎりは、けっしてでてこない概念である。形而上学は、「意味」を先験的なものとしてみるのだが、それは意味が示差的な関係の体系においてのみであるという事態を忘却しているのである。マルクスは、古典経済学における使用価値と交換価値という区別が、商品を孤立して考えるものだという。逆に、それらの区別は、商品が価値形態-示差的な関係-であるところから派生するのだ。(30~31ページ)
◇労働の生産性上昇は、時間的に相異なる価値体系をつくりだす
  • 労働の生産性の上昇は、分業や協業の強化によろうと、機械の改良によろうと、労働力の価値を潜在的にさげる。これはつぎのように言いかえてもよい。資本家は、すでにより安くつくられているにもかかわらず、生産物を既存の価値体系の中におくりこむ。つまり、潜在的には労働力の価値も、生産物の価値も相対的に下げられているのだが、このことはただちには顕在化しないのである。だから、現存する体系とポテンシャルな体系が、ここには存在する。したがって、われわれは産業資本もまた二つの相異なるシステムの中間から剰余価値を得ることを見出すのである。われわれは、商人資本がいわば空間的な二つの価値体系の-しかもそこに属する人間にとっては不可視な-差額によって生じることを明らかにしたが、産業資本はその意味で、労働の生産性をあげることで、時間的に相異なる価値体系をつくりだすことにもとづいているといってもよい。(78ページ)
◇哲学的言説は「解釈」にほかならない
  • 《哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。大切なのは世界を変えることだ》(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)。マルクスがいうのは、哲学的言説は「解釈」にほかならないということである。これを、理論から実践へ、書斎から街頭へと読み違えてはならない。マルクスがたえず批判したのは、世界を変えようとする者たちを支配している「解釈」なのだ。いいかえれば、マルクスの仕事は、「解釈」としての哲学をさらに解釈することである。哲学の中心性、普遍性、超越性それ自体が兆候であって、そこに隠蔽された差異性・関係性を解読することが、マルクスの仕事を特徴づけている。(100~101ページ)

■読後感

本書は、1974年に『群像』に掲載されたことが初出であるが、注目をされるようになったのはやはり1980年代のニューアカデミズム時代ということになるだろうと思う。難解ではあるが、エンゲルスの読み方に対し著者が提示した新しいマルクスの読み方は、今でも輝きを放っている。