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岡田暁生『音楽の聴き方:聴く型と趣味を語る言葉』中公新書、2009年6月

 

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 

■内容【個人的評価:★★★--】

◇音楽の楽しみは、聴くことだけではなく語り合うこと。語り合いには方法論が存在する。
  • コンサートには行かず、ほとんど専らCDやパソコンからのダウンロードなどで音楽を聴くことを慣わしとしている人々の場合は違うのかもしれないが、やはり大多数の人にとって音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験を共有し、心を通わせ合うことにあるはずである。 例えば素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくてうずうずしているところに、ばったり知人と出会って、どちらからともなく「よかったよねー」の一言が口をついて出てきたときのこと。 互いの気持ちがぴったりと合ったと確信させてくれる、コンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると、私は信じている。 素敵なコンサートの後の帰路、せっかく知人と一緒なのに、互いに押し黙ったままでいるくらいつまらないことはないだろう。 自由闊達に語り合えれば合えるほど、やはり音楽は楽しい。 聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。 音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体になってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。(iiページ)
  • とはいえ、「よかったあ!」と感嘆の声をあげるだけで満足するのではなく、もっと彫り込まれた表現で自らのについての言葉を紡ぐのは、よりそう容易なことではない。 へーゲルはかつて音楽の出発点が「心情の「ああ」と「おお」であるといくぶん侮蔑的に述べ、それが分節的な把握の対象とはならないと考えた(『美学講義下巻』、作品社、一一八ページ)。 音楽を語る言葉がややもすると間投詞のようなものに接近する理由は、このあたりにあるのかもしれない。 思えば私自身もかつては、「うまかった/へただった」、「よかった/よくなかった」、「感激した/退屈だった」といった大雑把な印象以上のことを、ほとんど口に出来なかった記憶がある。 そして何か気の利いたことを言おうと、通ぶって「あそこのファゴットはあんな風に吹いていいものかねえ」などと口にしてはみても、どうにも周囲と言葉が噛み合わず、後味の悪い思いをしたことも、少なからずあった。 音楽の余韻をもっと楽しもうとして、いろいろ話をしていたはずなのに、「そんな細かいことがどうかしたの?」と気色ばまれたりして、せっかくのコンサートの余韻が冷めてしまうのだから、本末顛倒ではある。 確かにこんなときには、「余計な議論などするんじゃなかった」という後悔を込めて、思わず「葱食う虫も好き好きなのさ・・」とうそぶきたくもなる。 だが今にして思えばああした行き違いは、決して趣味についての意思疎通の原理的な不可能性に起因するものなどではなく、単に当時の私の言葉のレベルが余りにも稚拙だっただけのことなのだろう。 「音楽を語る言葉を磨く」ことは、十分努力によって可能になる類の事柄であり、つまり音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在するのだ。(iiiページ)
◇ 「聴き方」とは「聴く型」のこと
  • 端的に言って、「聴き方」とは「聴く型」のことだと、私は考えている。 「こういう音楽が来たら、こういうパターンとして聴く」という暗黙の約束事が、一見「どう聴こうが自由」と思える音楽鑑賞の世界にも、無数に存在している。 具体的な例を一つ挙げよう。例えばシューマンの《子供の情景》の一曲目。夢見るような二小節の旋律が、ここでは絶え間なしに変奏され、繰り返される(第三章九三ページの図を参照)。 正確に言えば、このABAの三部形式の曲では、Aでは二小節動機が四回、Bでは三回反復されるから、都合「2小節×4回/2小節× 3回/2小節× 4回」=11回繰り返されるということになる。 だが西洋音楽の語法に通じている人は、これを「二小節の動機が一一回繰り返される」とは聴かない。 「八小節(ないし六小節)が三回繰り返される」、そして一回目と三回目は長調であり、しかも内容的に同じであるのに対して、二回目は短調であって、両端の部分とコントラストを成している」、つまり「これはABAの三部形式である」という具合に聴く。 ソナタ形式とかロンド形式といったものもすべて、作曲の型であると同時に聴く型でもあるのだ。(viiページ)
◇音楽の好みは、その人とともに変わるものである
  • あらかじめ聴き手がある波長でスタンパイしており、たまたま周波数がそれと一致する音楽を耳にすると、過剰とも思える同調反応を示すということもあるだろう。 例えば若い頃の私は、シューマンピアノ曲に対して、極度の思い入れがあった。 《幻想小曲集》や《クライスレリアーナ》や《幻想曲》など、ときめきと絶望がせわしなく交錯するその焦燥感に対して、同調メーターの針が振り切れるくらいに反応したものだ。 ところが不思議なことに三〇歳前後を境にして私は、シューマンを聴いても何も感じないようになってしまった。 今では彼の音楽の夢想と性急さが、いかにも未熟で青臭いものと聞こえることすらあるくらいである(10ページ)
◇ 芸術体験への感性は「内なる図書館」が関係している
  • 芸術体験におけるこうした「相性」の問題について、フランスの文学理論家ピエール・バイヤールが、とても示唆に富んだことを書いている(『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房、特に九四ページ以降)。 彼によれば、誰もが「内なる図書館」を持っていて、これまでに読んだ本、読んだけれど忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本、どこかでその批評を読んだことのある本などについての諸々の記憶の断片から、それは成っているという。 そして互いの「内なる図書館」が食い違っている人間同士が論じ合うと、一向に話が噛み合わず、「耳の聞こえない者どうしの対話」になってしまう。(中略)これまでどういう本(音楽)に固まれてきたか。どのような価値観をそこから植えつけられてきたか。 それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。 一見生得的とも見える「相性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。(12~13ページ)
◇ラテン系とゲルマン系の音楽の違い
  • イタリアやフランスの音楽文化はもともと娯楽性が高く、音楽の中に「世界の救済」だの「言葉に尽くしがたい無限のポエジー」だのといった形而上学を求めたがる伝統は、そこにはなかった。 それをドイツ側から見れば、「不逞無頼の徒」がやる、唾棄すべき軽佻浮薄な音楽ということになるのである。 今でもクラシック音楽批評で散見される「精神性」とか「深い(浅い)」とか「内面的(外面的)」とか「崇高」とか「苦悩」といった、ドイツ観念論ばりの語彙は、この頃に日本へ持ち込まれたものなのだろう。 身振り豊かな砕けたジャルゴンでもって、生き生きと音楽について語る可能性は、日本のクラシック音楽受容過程においては、最初から排除されていたのかもしれない。(75ページ)
村上春樹シューベルト
  • 第一章でも引用した村上春樹シューベルト論の中に、こうした身振り感覚を誘発する言葉の見事な例がある(六二ページ以下)。 ここで論じられているのは、シューベルトの長大なニ長調のピアノ・ソナタ (D850)なのだが、これは形式的にいろいろと問題があり、あまり演奏されない曲である。 村上によれば「このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見当たらない。 いくつかの構造的欠陥さえ見受けられる。 早い話、ピアニストにとっては一種の嫌がらせみたいな代物になっている。」にもかかわらず村上にとっては、このニ長調こそが個人的に最もお気に入りの、シューベルトソナタなのだという。 この前フリに続いて村上は、まず吉田秀和による同作品についてのエッセイを引用する。 吉田もまたニ長調ソナタについて、否定的な意見を口にすることから始めている。 「第一楽章からして、威勢よく始まりはするものの、何かごたごたしていてつかみにくい。 おもしろい楽想はいろいろとあるのだが、いろいろと往ったり来たりして、結局どこに行きたいのか、と問いただしたくなる。 [中略]シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、ニ長調ソナタは冗漫にすぎる」。 にもかかわらず吉田は、内田光子による同ソナタの演奏を聴いて、あることを発見する。 「[今回このソナタを]思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばしり出る『精神的なカ』がそのまま音楽になったような曲なのである」(78~79ページ)
◇音楽を言葉にすることの大切さ
  • 再三繰り返すが、音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。 しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータス、つまり少数の選良の特権であってはならない。 どんなに突拍子もない表現であってもいい。 お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼りつけてみよう。 音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。 理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと引き込む誘いの語彙である。 いずれにせよ、音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。 心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。 芸術作品に名前をつけるという行為が持つ不思議な魔力について、佐々木健一はとても魅惑的な表現で語っている(『タイトルの魔力』中公新書、七ページ)。(81~82ページ)
◇ 本書のまとめを兼ねた聴き上手へのマニュアル
  • 本書のまとめを兼ねた「聴き上手へのマニュアル」を思いつくままに箇条書きしてみたい。
  • 他人の意見は気にしない。もちろん「聞く耳」を持つにこしたことはない。 だがいちいち「本当はどうだつたのですか?」などと他人の顔色をうかがう必要はない。 「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた」これこそがすべての出発点だ。
  • 世評には注意。「看板に偽りあり」のケースは意外に多い。そもそも人と意見が違っていたとしても、そこには必ず何か理由がある。 「他人との違い」を大切にすること。
  • 自分のクセを知る。そして客観的事実と自分の好みはある程度分けて聴く。 そのためにも、自分がどういうものに反応しやすく(過大評価しやすくてどういうものに対して鈍いか(過小評価しやすいか)、よく分かっておいた方がいい。
  • 「理屈抜き」の体験に出会うこと。 定期的に音楽を聴く習慣を持つならば、そのうち「これは間違いなくこうだ!」と思える瞬間が来るはずである。 そのためにも数を聴かないと始まらない。
  • 「明らかにお粗末な音楽」というものも、自分の価値軸を形成していくうえで、とても貴重なものだ。 「これは凄い!」と「これはお粗末だ」の両極の経験を得て初めて、さまざまな陰影が見えてくるようになる。
  • 有名な音楽家を神格化しすぎない。彼らにも「駄作/駄演」はある。また「傑作/名演」として名高いものでも、隅から隅まで完壁に仕上がっているものは、そうはない。 ところどころ隙や穴があったりするから面白い。 退屈する箇所があったとしても、そこにはしかるべき理由があったのかもしれない。
  • 「絶対に素晴らしい!」と「明らかにひどい!」の両極の間には、格別いいとも悪いとも断定しがたい、さまざまな中間段階が存在している。 これらは聴く角度次第でいろいろな評価が可能だ。ありうべき判断に幅のある音楽は多い。
  • 絶対的な傑作を除いて、多くの音楽は「語り部」のよしあしにより、面白く聴こえたり、退屈になってしまったりする。 音楽についての言説をあなどることは出来ない。
  • 「聴き上手」とは聴く文脈をいろいろ持っている人のことだ。音楽を吟味する文脈という「試薬」の手持ちを、出来るだけ多く持つにこしたことはない。
  • 音楽には「本来の」文脈があり、伝承過程で形成されてきた文脈があり、別の文化/時代に移植されることで加わる文脈がある。 自分がどこで聴こうとしているか、少し意識的になってみよう。
  • 名曲(名演)とは、どんな文脈を当てはめても(文脈にあまり関係なくて「やっぱり凄い」となる確率が桁外れに高い音楽のことだ。確かにそういうものは存在する。
  • そのジャンルに通じた友人を持つこと。 「この角度から聴けばこう、こう」といった具合に、複数の聴き方の可能性を教えてもらおう。
  • 定点観測的な聴き方をする。例えば同じ(地元の)オーケストラの定期演奏会を必ず訪れてみる。 やがて出来の微妙な違いが見えてくるはずだ。「聴く耳」を作るには、有名音楽家のつまみ食いよりも、こちらの方がいい。
  • 「固定客」の反応(例えば拍手)に学ぶ。定点観測的な聴き方が勉強になる最大の理由はこれだ。 なじみの客はそこに出演する音楽家のことをよく知っている。「出来がこれくらいなら拍手はこれくらい」という、その加減が何よりの指針になってくれる。
  • 音楽は視なければ分からない。録音で音楽を聴くことに慣れている私たちは、身体が現前していないのに音だけが響いてくる異様さを忘れがちだ。 しかし本来音楽とは生身の人間の身体から発せられるものであって、耳で聴くだけの音楽はどうしても全身で同調することが難しい。 その意味でも、特に最初のうちは、ライブ中心に聴いた方がいいと思う。
  • 最終的には「立ち去りがたさ」を大切にすること。何度も繰り返すが、途中で中断することがどこかためらわれたとしたら、それこそあなたのための音楽だ。
  • 音楽を言葉にすることを躊躇しない。そのためにも音楽を語る語彙を知ること。 音楽を語ることは、音楽を聴くことと同じくらい面白い。まずは指揮者のリハーサル風景の映像などを見てほしい。
  • 音楽についての本を読むことで、聴く幅が飛躍的に広がる。ただし、つまらないものばかり読んでいると、つまらない聴き方しか出来なくなるかもしれない。 他人が使った語彙は、あくまで自分の言葉を見出すまでの、仮設の足場のようなものだ。
  • 音楽の文法を知る。だが音楽理論書などにいきなり手を出しても、すぐには分かるまい。クラシック音楽の場合なら、右にも述べた指揮者のリハーサル映像、あるいはバーンスタインやラトルが作った教育的なテレビ番組などを見るのが一番だ。
  • 興味のある音楽があれば、その国の言葉を少し学ぶ。友人に十ヶ国語以上の言葉に通じている人がいるが、新しい言語を学ぶとき必ず、その国の歌を聴いて覚えることから始めるそうだ。 辞書は引かず、まる覚えするという。つまり音楽を通して言葉が、言葉を通して音楽が、もっと分かるようになるのだろう。
  • 音楽に「盛り上がり図式」ばかりを期待しない。その音楽とは不似合いな構成をこちらが 勝手に期待して、肩透かしを食うということがある。最初から最後までBGM風に平坦な音楽もあれば、聴き手をけむにまく終わり方もあるし、意識的に断片を並べたような構成もある。 いろいろな組み立てパターンを知っておく。
  • その音楽が「傾聴型」か「聴き流し型」か適切に判断する。 会話や読書でもそうだが、その音楽に応じた集中の程度/仕方というものがある。「聴き上手」な人は角度」がうまい。
  • 「美しくて、人を癒し、快適な気分にさせ、あるいは感動させ・勇気づけるもの」だけが音楽だという固定観念を捨てる。 古代遺跡を見るときのように、「分からない」というミステリーに楽しみを見出す聴き方もある。 前衛音楽の多くのように、美しさをあえて拒絶し、真実の認識たらんとする音楽もある。
  • ある音楽が分からないときは文脈を点検する。特に背景知識の有無、それをどんな場で聴いたか、こちらが何を期待していたかに注意。 「ぴんと来ない」ケースの大半は、パックグラウンドに対する共感がなかったり、場違いなTPOで聴いてしまったり、見当はずれな期待をしてその対象に臨んだことに起因する。
  • ある音楽を身近なものと感じるには、それが生まれ育った文化を知るのが一番だ。ある音楽に興味が湧いたら、その故郷へ行ってみる。 どこかへ旅をしたら、その土地の音楽を聴く。どんな人々が、どんなところで、どんな風に、どんな音楽を聴いているかを知る。
  • そのジャンルのアーカイヴを知る。「ジャンル」として確立されている音楽の場合、必ず観客が暗黙の前提にしている架空の図書館がある。 「およそこれくらいまでがこのジャンル」という合意が、コレクションを囲い込む。 そして目立つところに有名作品がいろいろ買いてある。「こういうタイプの作品はどのあたりに置いてありそうだ」といった方向感覚がついてきたらしめたもの。 そのためにも、たくさん聴いて、読んで、いろいろな人名や作品名を覚え、多くの人と話すこと。
  • 場を楽しむ。音楽は必ず何らかの「場」の中で鳴り響く。 音楽との最も幸せな出会いは、「音楽」と「わたし」と「場」とがぴったり調和したと思える瞬間の中にある。 あまり音楽だけを取り出して、グルメ・ガイドよろしく品評することはしたくない。 音楽それ自体は素晴らしいのに、なぜかつまらない演奏会というものは存在する。
  • 自分でも音楽をしてみる。ただし「うまい人ほどよく音楽が分かっている/下手な人間は音楽について語る資格はない」などと思わないこと。 堂々と品評するアマチュアの権利を行使する。(208~213ページ)

■読後感

冒頭で記載しているように、音楽は一人で楽しむ部分もあるが、語り合うことの喜びということがある。たんに「よかった」などというだけではなく、自分なりの感性でこんな感想を持ったということを、言葉にすることが大切であるとしている。

たしかに、「よかった」という言葉くらいしか出てこないのが通常で、一方でうがったディテールを言っても言葉が上滑りしてしまい、とても共感にはいたらないのが音楽体験の共有化の難しいところだと思う。

この本では、一番大切なのは自分の感性ということを言っている。例えばコンサートを聴きに行っても、「感想は?」と聞かれて言葉が出ないときのほうが多いような気がするけれど。巻末のマニュアルを参考にもう一度考えてみたい。