堂目卓生『アダム・スミス』中公新書、2008年3月

■読むきっかけ

  • 経済というものを概念としてとらえるようになったとき、人は富というものをどのようにとらえていたのか
  • 自給自足から循環的な社会へ向かうにあたり、循環的社会の安定を導く基礎をどこに求めていたのか

■内容【個人的評価:★★★−−】

  • 道徳感情論』が『国富論』の思想的な基礎をなしている
  • 道徳感情論』でスミスは、社会秩序を導く人間本性を明らかにしようとした
  • 「財産への道」と「徳への道」がある。「財産への道」への過程で「徳への道」(社会全体の富の増大と再分配)が実現される。このように二つの道が同調していれば問題ないが、相反するときは「徳への道」を進むべきである。
  • 上流の人々がより多くの富を求めようとするとき、また下流の人々が上流の人々を羨望するとき、しばしば「徳への道」を踏み外してしまう。
  • 他人よりも大きな富を持つ、あるいは他人よりも高い地位につくためには、1)自ら努力、勤勉、能力開発、節約し、その他の英知や徳を高めるという方法、2)他人の足を引っ張るという方法(虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺) の二つがある 第二の方法はフェアプレイを侵犯するものである
  • スミスは、現実問題に対応するとき、今なすべきことと、そうでないことを見分けることが重要であることを教える。スミスは、自由で公正な市場社会を理想として掲げた。・・・しかしながら(その実現の障壁となっている諸規制について)今すぐ廃止することには反対した。その理由は、諸規制の急激な廃止は、規制によって守られている人々の生活を脅かし・・・社会秩序の混乱につながりかねない。
  • スミスにとって危険なのは、人々の感情を考慮することなく自分が信じる理想の体系に向かって急激な社会変革を進めようとする人ー「体系の人」ーであった。
  • スミスは真の幸福は心が平静であることだと信じた。・・・真の幸福を得るための手段は、手近に用意されているのだ。与えられた仕事や義務、家族との生活、友人との語らい、親せきや近所の人々との付き合い、適度な趣味や娯楽。これら手近にあるものを大切にし、それらに満足することにより私たちは十分幸せな生活を送ることができる。・・・人生の中で何か大きな不運に見舞われたとしても、私たちには、やがて心の平静を取り戻し、再び普通に生活していくだけの強さが与えられている。
  • 多くの人々が陥る本当の不幸は、真の幸福を実現するための手段が手近にあることを忘れ、遠くにある富や地位や名誉に心を奪われ、静座し満足しているべきときに動くことにある。・・・富や地位は、手近にある幸福の手段を犠牲にしてまで追及される価値はない。

■読後感
社会にセーフティネットをめぐらせるべきなのか、自助努力で対応すべきなのかという古くからの問題がある。昨今では、アメリカ型の弱肉強食型社会のモデルに対する批判が大きくなり、北欧型の福祉社会モデルに注目が集まるようになってきている。
セーフティネット型社会の弱みは、社会全体として自力での対応力が弱くなってしまうところにある。優しい社会=弱い社会、人頼みの社会になる可能性が高くなる。社会全体で対応を図ろうとすれば、弱い人が増える分自力で対応しようとする人の負担は大きくなる。
一方、アメリカ型はそうした相互扶助は公的機関が行うのではなく家庭が行う。公的な仕組みがない分必死にならざるを得ない。これは社会のあり方をできるだけシンプルにし、公的機関の介在をできるだけ少なくし、活力を維持しようとする社会である。
エセ申告、無駄遣いにつながるようなあり方を回避するための方途を模索する必要があるが、厳密なものは難しい。
社会を人体にたとえると理解がしやすくなる。社会が病気になったとき政府が行うことは何か。せいぜい投薬までか、それとも器官を置き換えるような手術まで行うのか。こういった基本的な考え方について社会の合意ができていない。個別の法律を作ることで対応するのだということになっているが、基本的な考え方がそのときそのときのポピュリズムで変わってくるのであれば、法律そのものが定見を示すものにならない。
人間は悲しいことに大きな勘違いをしている。自分の命には終わりがないという勘違いを。この勘違いをしている人と競争を行うことを避けなくてはならない。つまらない競争で貴重な時間が失われるのはもったいないことだ。
社会には「適正な」状態はない。それを構想し上から与えたとしても、人がどう感じるかは別の次元であるためだ。人はそれぞれの置かれた環境でそれぞれ別の方向を向いている。重く価値を置こうとする部分も人により違う。そんな中で、スミスのいう心の平静が実現できる社会とは。政策については、大きな方向性を志向しつつあるいは価値を大事にしつつ、小さな方向性を模索するものになるだろう。これが場合によっては大きな方向性からずれていることも十分ありうることなのだ。
ケインズ完全雇用をテーマとしたのは、ほかならぬ人間をテーマとしたためだ。いくら豊かな社会でもここから外れてしまう人が多くいるのではだめで、完全雇用という形で一人ひとりが経済の循環系にぞくしていなければならない。少なくともこれを実現すべきで、あとは人生をゲーム(戦争ではなく経済で)として楽しめることが必要ということだろう。
しかし一方で、社会は享楽の種ばかりが増えてしまった。人間の自由になった時間は享楽に充てられる。資本蓄積が進み、労働時間が減るほど人間の質が低くなるというのは、ある意味当たり前のこととも言える。
どうしてもあるべき姿を外に求めてしまう性向が人間にはある。しかし、本当は自分の中にあるのではないか。

■引用
スミスは、真の幸福は心が平静であることだと信じた。そして、人間が真の幸福を得るためには、それほど多くのものを必要としないと考えた。与えられた仕事や義務、家族との生活、友人との語らい、親戚や近所の人々とのつきあい、適度な趣味や娯楽。これら手近にあるものを大切にし、それらに満足することによって、私たちは十分幸せな生活を送ることができる。多くの人間が陥る本当の不幸は、真の幸福を実現するための手段が手近にあることを忘れ、遠くにある富や地位や名誉に心奪われ、静座し満足しているべきときに動くことにある。富や地位を求めることはよいしこれによって社会は繁栄する。しかし、富や地位はそれを手近にある幸福の手段を犠牲にしてまで追求される価値はない。