梅田望夫 平野啓一郎『ウェブ人間論』、新潮新書、2006年12月

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

■読むきっかけ

  • googleの持つ検索の力は世界中の情報を一元的に管理するものになりうる
  • これを有効に活用できれば、「カフカの『城』」的世界に生きる人間の「自由」も高まるのではないか
  • 検索の客体にならず主体的戦略的に活用する方法は何かを知りたい

■内容【個人的評価:★★★−−】
○第一章「ウェブ世界で生きる」

  • インターネットが人間を変えるのであれば、どのように変えるのだろうと思い小説やエッセイを書いてきた。(平野)
  • 自分は一日8〜10時間ネットにつながっている。東京にいると会議などリアルな世界で忙しいが、アメリカに戻るとネットにつながって考え事をしている。(梅田)
  • 情報処理のことで面白いと思うのは、80年代に活躍したニューアカ世代の人は、今でもあらゆる情報に通暁して、それを処理することができるというような幻想が垣間見えることである。トリビアルな知識を披瀝して、これは誰でも知っているべきではないかといったスノビズムがある。しかし90年代以降、情報が誰にでもアクセス可能になってきわめて膨大であることがわかったし、結局は、選択的に自分の関心のあるものにだけ手を伸ばすか、おおざっぱな全体の把握に努めることしかできないという意識が一般化したのではないか。どこそこでこんなことを言っているといっても、「あ、そう」としか思わなくなってきた。(平野)
  • 検索サービスはいろいろありグーグルは後発である。しかし、ネットにおける検索の意味を唯一正確にとらえていたのはグーグルだった。(梅田)
  • 1995年から2005年までの10年はインターネットの時代であり、続く2006年から次の10年はグーグルの時代=検索エンジンの時代である。ウェブ1.0は利便性が特徴であり、ウェブ2.0は参加型である。SNSなどはそうした事例に該当する。(梅田)
  • 翻訳はそんなに簡単にはできないだろう。逆に、今後の世代は、翻訳しやすい言葉を意識して使っていくかもしれない。(梅田)
  • ブログは書き始めて4年になるが、文章の推敲が足りなくても、少々誤字があってもよいのでリアルタイム性と勢いが必要である。ブログの本当の意味は、何かを語る、伝えるということ以上に、知の創出をするということではないか。相互のやりとりができることが知の創出につながる。(梅田)
  • ブログには、情報発信型のブログと、当人以外にはどうでもよいことをこつこつ記録していくブログがある。後者は匿名が多い。(平野)
  • トラフィックをみて、こんなに多くの人が訪れているということにびっくりするのも面白い。(梅田)
  • クラスの上位5人みたいな人は、社会に埋もれていることも多い。そうした人がブログで情報発信していくと社会も変わるのではないか。(梅田)
  • 一個の人間の全体が社会的に有益とは思えない。他人にとって役に立たない部分が大半ではないか。しかし、リアルな人間関係ではそうした部分は締め出されてしまう。その無益な部分がブログでは生きる。(平野)
  • いろいろな人とネットで出会えるようになり、かえって踏み込んだ付き合いをしなくなっている。結婚から遠ざかっている。(平野)

○第二章「匿名時代のサバイバル術」

  • ある一人がやっていることはその組織では深い部分までは理解されない。しかし、オープンソースの世界では、おまえの書いたこのコードはすごい、などの反応が世界中から返ってくる。ブログでもトラックバックが来ることでつながっている充実感を味わうことができる。実利がなくても精神的な満足がある。(梅田)
  • ブログをやっている人の意識は以下の五つに分けられるのではないか。(平野)
    • 1.実名で書き、リアル社会と同じような礼儀が保たれ、有益な情報交換が行われているもの
    • 2.趣味の世界など、分かりあえる人どうしの交流
    • 3.日記、日々の記録
    • 4.リアル社会の抑圧により語られることのない内心の声
    • 5.妄想や空想のはけ口として、ネット上に別人格をつくるもの
  • ミクシィはあまり荒れることがない。それは、リアルな友達のネットワークから加入するため、変なことを書いていると分かってしまうからである。ブログの方が悪罵が多い。しかしネット上の善意と悪意を比べると、少しだけかもしれないが善意の方が大きいのではないか。(梅田)
  • ネットでのお金の流れということを見ると、たしかにグーグル・アドセンスのようなものもあり、回り始めて入るが、リアル社会に比べて小さい。広告市場全体で50兆円ほどあると考えられるが、ネット市場では3兆円ほどしかない。(梅田)
  • 全部をみて傷つくより、自分にとって悪いもの、不必要なものは見ない、そうやってネット・リテラシーを育てるしかないだろう。(梅田)

○第三章「本、iPod、グーグル、そしてユーチューブ」

  • 本をアマゾンの「なか見!検索」のような形にすると、本が売れなくなるのか。そうは考えない。ネットで本はじっくり読めない。ネットで存在を認知して本を読むことになるだろう。(梅田)
  • なか見!検索」は、本をアマゾンから買った時点で全部を見ることができるようになる。これもロングテールビジネスではないだろうか。(梅田)
  • グーグルが情報や広告の世界を変えようとしているのは実は驚くべきことで、そういう企業や人が出てくるのは今のところアメリカだけである。アップルはシリコンバレー、アマゾンはシアトルといったように。(梅田)
  • グーグルのいう世界政府とは何か。政府という言葉はコントロールを連想させるが、インターネットに中心はない。情報空間の構造化を考えているのだ。そこで得られる個人情報には興味はない。(梅田)

○第四章「人間はどう「進化」するのか」

  • ブログを書く、不特定多数に向けて発信するということで人間が変容するということがある。まずプロフィールをつくることとなる。その中で自分とはなんだろうと考えることになる。そして、ブログに何を書こうかと考える。自分は、読書と将棋とメジャーリーグのことなら書ける、これに欧州への旅、美術館めぐりを書くことができる。その中でも読書、読んだ本の一部を抜き書きするのって本当に幸せな時間だなとか、そんなことに思い至るようになった。大げさにいうと自分を発見した気分だった。(梅田)
  • たしかに他者との間では自分のいいたいことがうまく言えない。場の雰囲気でしゃべらされている。独りになったときに吐き出す言葉が本当の自分なのだと思う。(平野)
  • ある人が、仕事の時間を含めて心地よく生きられるコミュニティを発見して、そこで長い時間過ごすことって、幸福という観点からとても大切だと思う。(梅田)
  • たまたまリアル世界で充実していて幸福な人はいいが、そうでない環境にいたら、そこに留まっていてはいけない。行動して自分の居場所を見つけた人だけが幸せに生きることができる。リアル社会を改善する努力より合う環境を見つける方が時代に合っているのではないか。(梅田)
  • しかし、親子関係など逃げられないものもある。リアル社会を変えていくということをせざるを得ない場合の方が多いのではないか。(平野)
  • 自分は残された時間を考え、付き合いたくない人とは付き合わないということを優先事項にするようになった。そもそも人間はそんなに多くの人と付き合うことはできない。せいぜい50人位ではないか。嫌なことでストレスを溜めるより避けた方がよい。(梅田)
  • ネットに関わる時間は増えたとしても、自分でものを考えるという時間はきわめて必要なのではないか。ネットで十万字哲学について読むのと、一冊哲学書を読むのとは全然違うのではないか。(平野)
  • 外部記憶はそのたびに検索するということだが、教養とは基本的に内部の記憶の問題であるはず。それがどう組織化されているかということをふまえて外部記憶の活用が可能になる。(平野)

■読後感
夏目漱石の『三四郎』で、三四郎がはじめて上京する際、列車に乗りあわせた「先生」が、三四郎の「これからは益々日本も発展するでしょう」という言葉に対し「いや亡びるね」という言葉を返すくだりがある。いろいろな意味が含まれた言葉だと思うが、着眼点としては、いわゆる表面上の豊かさではなく、人間の内面・幸福に着目しているところだと思う。

さまざまな制度を整備しても、それが人間の自由を実現するものとしても、人々がそれを認識していない限り、意味がどれだけあるといえるのか。

制度はうえから作られる。とくに日本のような国では、まず外国から輸入され、その後は軍部による統制とある種の熱狂の期間を経て、戦後のマスコミとポピュリズム、ある種の福祉主義に基づいて制度が作られる時代が今である。

「亡びるね」という言葉は人間の内面を考えると切実な響きを持っている。ある種生き物として生きていかざるを得ない存在ではあるが、人間としての価値はどうなるのか。

制度でも新しい技術の枠組みでもよいが、これを立案・実施した人にはある種の経験として内在化される。しかしそれを受ける人たちには、多くの場合それを作り出す過程での悩みや迷いがない。こうしたこともあり、経験として内在化されることがない。
実は結果としての制度や新しい技術もそうだが、これを内在化させる過程こそが重要とすれば、誰もがその人生でこうした枠組の形成に参画する仕組みこそが重要である。それは、より身近なものでもよいだろう。

このウェブ技術も作り出した人間や技術をどう使うべきか考えた人間のみが本当の意味で使っているといえるのではないか。