加藤尚武『世紀末の思想』PHP研究所、1990年7月

世紀末の思想―豊かさを求める正当性とは何か

世紀末の思想―豊かさを求める正当性とは何か

■読むきっかけ

  • 技術の進歩に対して、その中で生きる人間の倫理を「バイオエシックス」などの形で具体的に提示していること
  • 哲学・倫理学の業績をふまえつつこれを現代社会(民主主義、豊かさ、死)を読み解くツールとして活用していること

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • ミルの『自由論』は1859年に出されているが、この中でミルは、民主主義社会が必ずしも自由とはいえず、多数者の圧政になる可能性があることを警告している。しかし日本では、「国民の合意」がそうした状況につながりかねないことを疑ったことがない「マスコミ型民主主義」である。
  • 平和という概念も我が国においては民主主義と同様に、きちんとした考察が行われて尊重されているわけではない。マスコミ型民主主義にしか根拠をおいていないというのが実態である。
  • 技術については、アメリカでは生命倫理学が発達してきた一方、日本では質の高い技術を持ちながら、その社会化に関する処理方法を持ち合わせていない。
  • 価値観の根本は「自己充足」にある。しかし近代化と進歩の時代はこれを「自己否定」に切り替えてしまった。(たとえば「自己否定」的価値観の具体的な例としては「勤勉の重視」などがある)

○第一章「反省する民主主義」

  • 民主主義の基本的な原則は「当事者の参加」である。しかし、物事の決定において当事者を参加させてはいけない場面だってある。例えば裁判の原告・被告に関係のある陪審員、虫歯の治療における子ども、自動車の安全ベルトの使用などである。これは「当事者の排除が当事者にとって利益になる」ケースであり、「パターナリズム原則」という。
  • 「民主主義だから善い」はドグマである。そうではなく「どうすれば民主主義は善いものとなるか」を考えねばならない。
  • プラトンは民主主義によるのではなく、最適者の支配=事柄をよく知る者こそが事柄をよく支配できると考えた。よく知る者の最高が哲人君主である。また、啓蒙主義では、国民が教育による理性を備え、民主主義社会という理想の政治を実現させることを想定していた。しかし、高度知識社会である現代においては、すべての人を同じ水準の専門家にまで教育することは不可能である。
  • 民主主義的な決定が最適な決定とはなりえない好例として大学の教授会などがある。フリードマンが『資本主義と自由』で書いたように、自由な市場競争原理が持ち込まれていない場合、その集団は外に向けては自治を主張するが、そのじつ内部は衆愚政治と化してしまうことがよくある。
  • いっぽう近代社会は、こうした市場原理による淘汰者を、社会保障、対外援助などの形で受け止めてきた。しかし、保護のシステムが強いところでは、「自力で考え、対応する」という気風が失われ、たいてい堕落や大衆文化の蔓延につながってしまう。
  • 資本主義社会の目的は、個人の自由を尊重すること(ハイエクなど)なのか、それとも万人に繁栄と幸福をもたらすこと(ロールズなど)なのか、いわば自由か福祉かという問題が資本主義社会の根本的な問題でもある。
  • 税金に関しては、応益説、応能説という立場の異なる考え方があるが、課税には正当な根拠が必要であるということは言うまでもない。
  • スミスは『国富論』において、課税原則は、
    • 1.公平性
    • 2.確実性
    • 3.便宜性
    • 4.徴収費の軽減
  • としたが、もっとも重要なのは第一の「公平性の原則」にある。この公平性の原則をふまえると、累進課税という制度はおかしい。努力に応じて報いることがなくなれば正義は腐敗してしまう。
  • また、正しい原則を提示できない大衆民主主義はたんなるエゴイズムにすぎない。

○第二章「新時代の学問「バイオエシックス」とは何か」

  • バイオエシックスは、アメリカで生まれて20年ほどになるが、技術の進歩により生じることとなった問題、たとえば「回復の見込みのない患者から生命維持装置を外すことは許されるか」「明示的な意思表示のない患者について尊厳死を選ぶことができるか」などの問題について一定の見方を示すものである。
  • バイオエシックスの文献でよくとりあげられる言葉に「生命至上主義(vitalism)」がある。これは、いかなる犠牲を払っても1秒でも長く延命させようとする考え方である。しかし、欠陥新生児の生命を救う技術は向上しているが、重度の障害児を健常児にする技術はほとんど不可能である。こうした場合にも生命至上主義を採るのかどうか。
  • ここにおける判断の拠り所として「生命の質(Quality of Life)」がある。苦痛しかない人生に別れを告げるという判断もこれによる。
  • 長寿社会の到来、そして多くの人が病院で死を迎えるという状況の中で、現代人には死を手応えある概念として結びづらくなってきている。
  • 東西を問わず、宗教を問わず、ある意味では時代を問わず死について共通した観念があったと考えられる。キューブラ=ロスは、死という恐怖概念は変わっていないと説いた。しかし、さまざまな医療技術の進歩とともに、死に対する倫理の基本、死を迎える意識には本質的といってよい変化が生じてきた。一般的にいうところの死に対する倫理とは次のとおりである。
    • 1.死の受容(死から逃避せず受け入れなければならない)
    • 2.殺人の禁止
    • 3.自殺の否定
    • 4.延命の義務 である。
  • これらが、以下のような変容を見せ始めている。
    • 1.死者を隔離し、死を隠ぺいするようになっている
    • 2と3.人工妊娠中絶、安楽死脳死者からの臓器摘出が行われるようになってきている
    • 4.延命技術が発展した結果、「SOL(生の尊厳)」から「QOL(生の質)」へ医療の原理が変化している
  • 人類は、いまや生と死を自在に操ることができるようになった。しかし、こうした一時的な医療技術水準に適合するために「生命観の永遠の真理」を失うようなことがあってはいけない。技術的には可能であっても倫理的にしてはならないことがある。進歩はすべて善いものという見方は誤りだし、逆に進歩は恐ろしいという見方も誤りである。
  • 進歩主義から配分主義へ、生命と情報の低エネルギー技術へ、発展構造(廃棄)から循環構造(非廃棄)へと文化が転換するなら、生を意味づけるものは進歩や発展ではなく、自己充足の根源性こそに求められることになる。
  • 医療行為の中には「治療の停止」ということも選択肢の一つであること、治療の停止に当たっては患者の自己決定が必須であることをふまえると、インフォームド・コンセント(情報を与えられたうえでの合意)は医師の義務であるといえる。医師がオプションを提示し、患者が選択・決定するというのがインフォームド・コンセントの本質である。
  • パターナリズム封建制で、インフォームド・コンセントは近代民主制であるという考え方が力を増しているが、インフォームド・コンセントが成立するためには、医師と患者が呪術師モデル(権威と服従)でも市場モデル(不信の関係)でもなく、信頼と協力の関係にあることが必要である。
  • 脳の移植に関しては、それが治療なのか人間改造なのかという視点がある。

○第三章「戦争と平和

  • 精神史の大きな刻み目には必ずといってよいほど冤罪がある。ギリシア世界に精神の誕生を告げたソクラテスは毒杯を仰ぎ、キリスト教の創始者となった青年イエスは磔刑にされ、近代科学を生んだガリレオ・ガリレイも冤罪を受けた。これと同様に、トマス・モアのヘンリー八世の結婚問題をめぐっての冤罪死(1535年)は国民国家の普遍教会からの自立、すなわち主権国家の誕生を意味するできごとであった。
  • この主権国家の誕生すなわち「人が人に対し狼」という状態を脱することは「国家が国家に対し狼」という世界を生み出すことにつながった。
  • 現実としては、国家の教会からの自立は、フランスにおける「教皇のバビロン捕囚」(1309-1377年)、ドイツではプロテスタンティズムの支持とともに行われている。しかし、主権国家からのキリスト教の分離にあたり、キリスト教は国家に対し「正義の戦争」という自然法的な観念を残した。
  • 「正義の戦争」の要素は以下のとおりである。
    • 1.合法的権威によって決定された行為であること
    • 2.特定の過失が行われた後にのみ行われ、目的は損失の償還、不法にとらわれたものの回復をなす場合であること
    • 3.その意図が善の促進あるいは悪の回避であること
    • 4.自己防衛を除き、勝利への合理的な見通しが立つこと
    • 5.力の行使以前に平和的な手段で齟齬を解消するためのあらゆる努力が行われていること
    • 6.非戦闘員は直接の攻撃を免れるものであること
    • 7.力が応分の度を超えて行使されないこと
  • しかし、第二次世界大戦では項目6の「非戦闘員の殺傷」が行われ(ゲルニカ空爆(1937年))、大戦も末期近くになると戦争を終結させる決め手として都市への空爆が無差別に行われるようになった。
  • アンスコムは、正義の戦争における戦闘行動が非戦闘員を巻き添えにする可能性をぎりぎりいっぱい正当化可能なものと認めたうえで「非戦闘員の殺害を意図すること」を絶対的無条件に禁止している。

○第四章「豊かさを求める正当性」

  • 未来に対する責任が置き去りにされている。たとえば地球温暖化の問題についていえば、「現在の豊かさ」よりも「未来の生存可能性」が優先するという原理が大切である。
  • 恐ろしいことに、経済成長を志向しない国はない。経済成長よりも優先すべき価値原理があらわになっているのに世界は逆行している。
  • 過去の過ちは分かりやすい。しかし未来を損なうようなエゴイズムの行使は告発されることがまれである。「未来への責任」こそ近代倫理から構造的に欠落したポイントである。
  • われわれは、本当の充足を求めることを忘れ、たんに成長と進歩を追っているにすぎない。日本では、最低水準は高いが、最高水準は低いという特徴がある。
  • 今後は、定常化の中で文化的な活性を維持していくことが最高の社会的な目的となるだろう。豊かさの指標は以下のポイントにまとめられる。
    • 1.定常化に向けて構造的な矛盾がない
    • 2.最低生活の水準の向上
    • 3.文化の最高水準を達成し、創造力を失っていない
    • 4.配分の正義について国民的な合意がある
    • 5.生態系を維持するための循環システム
    • 6.人口定常化のための倫理的システムがある

■読後感
民主主義について、日本のそれがかなり危ういものであることについては、まさにその通りという感覚がある。とりわけマスコミによる考え方の押しつけになれてしまい、自分で考えることがない、あるいは考えていても周囲に対してはマスコミの考え方を意識せず述べ立ててしまうという状態である。
パターナリズムに関しては、使うべきところをある程度はわきまえているのではないか。どちらかというと考え方の整理に役立つポイントであった。
税の平等性・治療不可能者の死の問題については、少々厳しすぎるという感があったが、論点としては言う通りと思われた。
「正義の戦争」については、とりわけ得るところが大きかった。たしかに平和とは戦争がない状態にすぎず、また国家としてあらゆる手を尽くした上で最終的に「戦争」という選択肢を選ばざるをえない場合もある。