橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社、2005年11月

■読むきっかけ

  • なんでも自分の頭と感覚で考える著者が経済社会について語った一作
  • 「富」という概念について、たんなる貨幣価値を離れた論考が期待される

■内容【個人的評価:★★★−−】
○「はじめに」

  • 自分は明らかに負け組であるが、そもそも勝ち組・負け組などという区分をして、しかも負け組に属すると思われる人のいうことには耳を傾けないという今の日本はおかしいのではないか。
  • 現実には、貧富の差があっても不思議でもなんでもない。不必要な富を求めないという立場だってあるだろう。しかし負け組というレッテルを貼ってしまい、それらの人からは聴く耳をもたないことは「思考の自由」という大原則を侵すものである。

○第一章「乱世と勝ち組」

  • こうした「勝ち組」信仰の背景には、バブル崩壊後、どうしたらよいのか分からないという状況の中で、唯一これらの人たち(勝ち組)が「何とかなった、何とかした」を実現したということがある。
  • バブル崩壊後は、これにしたがっていればいいという確固たる理論はなくなり、知的な「乱世」を迎えた。日本の戦国時代に重ね合わせると、勝ち組が戦国大名、負け組が守護大名、戦火に煽られる農民が一般の人々ということになる。しかし、本来は戦国の世とは違い人々は主権者でもあるのであり、そうした意味では朝廷であるともいえる。
  • 昔は「民主主義は善いもの」と考えていた。民主主義がどんなものかもわからずそう考えていた。しかし、現実には「主権者の一人ひとりがああだこうだと考えなければならない」という意味で非常に面倒くさいシステムである。逆に言うと、民主主義以前の政治体制では、支配される恐怖もあるかもしれないが、支配させちゃうと楽という側面もある。
  • 以前は地方が中央を支えていた。しかし、今では都市が農村を支えている。これは一つの中央が地方を支えるという無茶な形である。

○第二章「たった一つの価値観に抗する」

  • 負け組の姿は見えにくい。業績の悪化により倒産した者だけが負け組なのだろうか。いや、そうした者を負け組とすることで、本当の負け組を見えにくくさせているに過ぎない。本当の負け組とは「パッとしないままのその他大勢」であり、ある意味では日本経済そのものともいえる。
  • では、もともと勝ち組・負け組の二分法はだれが持ち出したのか。それは投資家周辺の人々=エコノミストである。勝ち・負けを言い立てること自体は、企業の外にいて企業を見つめる者=投資家にとってしか必要がないことだからである。
  • エコノミストは、経済全体について、「負け組になる可能性がある」、とは言っても「負け組になった」とは言わない。そんなことを言ったらエコノミストの存在理由はなくなってしまう。経済は破たんすることがないという前提の元でエコノミストはあれこれ言っている。
  • 勝ち組は現行のシステムの枠組の外から来ている。日本の社会は完成されてしまっており、修理するには一度壊れるところまでいかないと難しいだろう。「勝ち組」はけん引役を期待されることはあってもリーダーにはしてもらえない。

○第三章「悲しき経済」

  • 経済とは何か。それは循環すること、グルグル回ることである。少なくとも英語のEconomyはそうした意味である。しかしこれを和訳するときに、中国の「経世済民」という言葉を用いてしまった。日本では最初からEconomyは民政に関すること、つまり国家により制御するものという意味づけがなされてしまった。本来のEconomyには、節約などの意味はあっても国家による制御といった意味はない。
  • 結果として日本では経済=難しいもの、という観念が生まれ、自分の立場で考えられる「経済」が育っていなかった。
  • スーパーマーケットは、昭和30年代に日本に入ってきたが、都市の中心には商店街があり参入できなかった。しかし、郊外の住宅地というフロンティアで力を蓄え、既存の住宅街へも進出を行っていった。また、スーパーの疑似デパート化も進み、県庁所在地にあるデパートの地盤も侵食するようになった。
  • ところがバブル崩壊後、消費は二極化し、高級ブランドか日用品かとなった。こうした状況下でデパートは、質の高い商品が売り物であったが、そうした商品はダサいという位置づけになってしまった。また日用品はすでにある程度のものが家庭にそろってしまった結果、こまごまとしたものは百円ショップで買い、また家庭ではなく個人をターゲットにしたコンビニを利用するということで、スーパーも地盤沈下することとなった。
  • スーパーは、すでにフロンティアを食いつくし、大きな利潤の望めないまま何とか日本経済にとどまるということしかない。
  • こうした日本における経験は世界でも同じと考えられる。
  • いまの世界は、蓄積されたお金が世界中を動き回っている。

○第四章「どう生きていったらいいんだろう」

  • 経済は人々の欲望をフロンティアにして成長している。しかし、世界経済はすでに満杯の状態であり、これ以上の活動を続けると地球が壊れてしまう。
  • 欲望への反対概念は我慢である。我慢をおいて現状に抗する力となるものはないだろう。
  • 日本は戦後60年以上の平和を続けてきている。安定的なシステムであるのに、なぜ子は親の職業を継がなくなってしまったのか。
  • 世襲は制度ではなく親の思惑である。しかし、個人の自由が広がり、また家庭内での職業教育もすたれていく中で自然に消滅していった。
  • これからの日本経済のフロンティアは女となるだろう。逆に言うと、オヤジは経済を回すことに専念してきた、社会の基本単位であろうとする義務感をもった最後の種族かもしれない。

■読後感
われわれ一般の人間は学者ではない。学者はこれまでの学問的な業績を踏まえた理論構築、実証研究を行う。われわれが、いわゆるマスコミ受け売りではなく自分がよりよく判断する、よりよく生きる術として考える場合には、著者のようにまず自分で考えることが基層にあるべきと実感させられる。
勝ち組=独裁者になる可能性、については少し筆が走りすぎかなあという印象。システムの外から来たとはいえ、勝ちになっているのはシステムに取り込まれているからとも思われる。
いわゆる利権によるシステムというのは、制度を飯の種にしている人々のことか、いわく専門的職業、特殊法人など。
世界経済の破たんは起こりうる。実物・サービスの循環系、労働の循環系はまだ需要あってのものであり堅牢かもしれないが、今般のサブプライムに端を発する通貨危機のように貨幣の循環系が恐ろしい。貨幣の破たん=その他の循環系の破たんでもあるからだ。それともブローデルの言うように、物々交換が顔を出すというような回帰で乗り切れるのか。モノの循環系にしても石油がなくなった時点でアウトだ。こんな単純なことが、他のエネルギーによる乗り越えされるだろうという楽観的な期待で覆われてしまっている。
貨幣の循環系:お金ばかりが多くなっている。しかし、これを適正な水準にカットすることは実経済のマネーにも影響を与えてしまいできないところがジレンマである。