姜尚中『悩む力』集英社、2008年5月
- 作者: 姜尚中
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2008/05/16
- メディア: 新書
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- NHKの知るを楽しむで著者が夏目漱石とマックス・ウェーバーを対比して行った説明が興味深く、さらに突っ込んで内容を聞きたかったこと。漱石が『三四郎』でいう「亡びるね」という言葉も深く考えてみたい。
- 人生とは自分なりにどれだけ考えを深めることができるかという言について著者の取り組みを手がかりとしたい。
- 「悩む力」にこそ生きる意味への意志が宿るものであり、これを漱石とウェーバーを手がかりに考えてみたい。
- 個人の自由が大きくなってきているはずなのに、これに見合うだけの幸福感につながっているとは言えないのではないか。自殺者も非常に多い。
- 現在の我々の苦悩の多くは、近代という時代とともにもたらされている。そのとば口で、漱石は時代の本質と人間の内面世界を描いた。漱石の趣意は文明が進むほど人の孤独感は増し救われがたくなるというところにある。一方ウェーバーは、西洋近代文明の根本原理を合理化におき、それが社会の解体と個人の孤立化へつながっていくことを解き明かした。いわば二人は同じ時期に同じようなことを考えていたのである。
- 二人が悩んだことは、今現実の問題としてわれわれの前にあり、二人の思想的取り組みはわれわれにとって大いに参考になるのではないか。
- みな自我に悩んできた。自我は、自分に閉じこもることではなく、他者との相互承認の産物であるといいたい。また、承認してもらうためには、自らを他者に対して投げ出す必要がある。
- まじめに悩み、まじめに他者と向かい合うことが突破口となるのではないか。
- 物知り、情報通であることと知性とは別物である。本来、知性には、学識、教養といった要素のほかに協調性や道徳観なども含まれていたのにどんどん分割されてしまった。カントのころは、知性は、「真」「善」「美」とかかわるものという認識がされていた。
- こんな時代で知性を高めるためには、知の最先端を突き進む方法と、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュのような知のあり方(伝統や習慣を大事にする)を見直してみる方法の二つがあるのではないか。
- 宗教というものはもともとその者の生きる世界に根差したものであり生活の一部だった。こうした、宗教を信じることのできた時代は、ある意味では迷いがなく、幸せな時期であったともいえる。
- 他力本願ではなく、自分が納得するまで悩むことが必要である。
- 働くことは社会において存在を認められることに通じる。決してお金のためばかりではないはずである。自分が自分として生きるために働くのである。
- なぜ恋人が欲しいのかという問いに対して、「幸せになりたいから」というのは深刻な履き違いをしている。そうした考えであれば代替可能な愛ということになり、「やっぱり違う」「本当の愛はどこにあるのか」ということになってくる。実感としていうと「愛には形がなく、刻々と変わるものでもある」。逆に言うと「これこそ愛」などというものはない。
- 愛とはそのときどきで相手に応えようという意欲のことであるといってよい。幸せになることではないし、愛が冷めることを心配することもない。
- 死ぬのも生きるのも自由というのが現代社会である。たしかに生きることにどれだけの意味があるのか悩んでしまう。しかし、相互承認、相手を理解し、また自分も理解されることが生きる力になるはずだ。
「悩む」こと、これはやはりあるのだと思う。しかし、たしかに若いときとは違っていて、とりあえず後で考えよう、といういい加減さもある。
漱石の悩みは、まったく今の我々にとっての悩みとそれほど変わらないと考えてよいのではないか。
少し、突っ込んだ議論に欠けるように思えたのは、著者もある意味てん淡としているからか。