西部邁『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年10月
- 作者: 西部邁
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1975
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- 新古典派経済学に対し、その公理ともいえる諸前提、例えば個別の経済主体による「決定」やそれを行う「心理」について、改めて問い直している
- 学際的アプローチをかねてから訴えてきた著者の視点を改めて見直してみたい
○「正統派経済学の限界」
- 正統としての新古典派経済学が、公害問題や所得分配などを扱っていないではないかということは経済学批判としては自立しえない。経済学批判は、基礎的な諸過程の現実性を疑うことを通じてなされるべきである。
- 人間像としては「組織人格」と「個人人格」がある。すべて理性的個人の意思決定で行動が決まるわけではない。
- 集団の経済行動をソシオ・エコノミックスという枠組でみようとするのは、新古典派の前提である「すべての決定をアトムである個人に還元して説明しようとすること」、「合理性を過度に強調すること」がそれぞれ現実とはかけ離れているからである。こうした視点から、コミュニティ・企業・家族といった集団の特性を改めて掘り下げることとしたい。
- 新古典派経済学のリアリティについては、それ自体高度に抽象的な体系となってしまっている。そもそも演繹の出発点となる公理自体がリアリティを欠いているという批判がなされるが、この公理自体実証の判定にさらされる性質のものではなく、リアリティによっては否定も肯定もされないものとなっている。
- 結論からいえば、新古典派の理論の欠陥は、経済行動を包括的に捉えることができないという点にある。「理論体系の包括性」が理論の可能的経験的合成の要件の一つであることを考慮すると、ここにおいて新古典派はリアリティを欠くこととなる。
- パーソンズは、経済的行動を個人レベルではなく、社会システムへの適合(A)をつかさどるものであり、目標達成(G)、統合(I)、および潜在的価値パターンの維持(L)といった諸機能との相対で社会的行為として位置づけている。また、経済行動を独立したものでなく、政治システムなどさまざまな他のシステムとの相互交換を行うものとして捉えている。
- 個人を社会的動物として考えると、企業、家族などの集団を考える方がより有益である。この取り組みは、さまざまな諸科学との共同を受けて行われる必要があるが、これに着手し、失敗したのが制度学派である。
- 制度学派はプラグマティズムの子であり、アメリカン・デモクラシーの子である。実践への執着の結果科学的方法を軽視してしまった。ガルブレイスの『ゆたかな社会』などは、示唆深いけれども学問的には新古典派への批判になりえない点がある。
○第一章「コミュニティと公正規範」
- ポラニーは、制度化された経済過程に、「自給自足」「互酬」「再分配」「市場的交換」の4つを見いだした。
- この市場的交換は、企業組織というもう一つの活動規則を伴って初めて成立する。
- 企業は生産要素の固定性を持っている。このことは、新古典派の可塑性、労働力の移動可能性といった前提とは異なる。
- また、企業の行動原理を「利潤最大化」としているが、これだけではなく企業内部における組織的関係もあり、単純な行動原理をあてはめるのは難しい。
- 完全競争市場はセリ人の存在を前提としている。ワルラス的オークションはセリ人が価格シグナルを点滅させるが、実際の市場は、不完全な情報に基づいて個別の取引者が自ら価格シグナルを発信する。不完全情報に基づく以上、均衡の達成は期待できない。
- われわれは、そうした不確実性の中で種々の制度、組織、規則を作り出し、短期的にはそれらに拘束されながら長期的には新たな拘束へと自分を駆り立てる。
- 新古典派は、どんな消費選好も強制されたものでない以上自立的であると考えている。しかし、文化そのものが個人の知覚や感情などの共有パターンとして保有されているのであり、「完全に自立的な決定」とは虚構である。
○「権力概念をめぐって」○「社会の部分工学をこえて」
- 社会計画の多くはそれ自身が新しい難問を生み出し失墜する運命にある。
いま読んでみると、きわめて広範な学問的成果に目配りをし、かつ自らの考え方にそった取り組みの結果と思われる。ただし、どちらかというと専門論文のような装いではあり、速読には向かない。
ここにおける検討は、その後の岩井克人や加藤尚武の著作にも影響を与えていると思われた。
新古典派理論自体が虚構のうえに築かれたものであることは理解できるが、こうした取り組みが即座に新古典派に変わる枠組を提供するものとも考えがたい。どちらかというと、岩井のような新古典派の枠組を精緻化すると結論自体がひっくり返ってしまうという取り組みの方が、考え方の整理においては有効との印象をもった。
さまざまな経済主体の集団の特性や心理についての考察は非常に参考になるものと思われた。