橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』筑摩書房、2001年10月
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2001/10
- メディア: 単行本
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- 歌舞伎が生まれた江戸時代に、人々はどうやって楽しんでいたのかを知りたい
- どんな演目をどのように上演していたのかも知りたい
○一、「歌舞伎の定式」
- 定式(じょうしき)は、江戸歌舞伎における決まりごとのようなものである。江戸の歌舞伎の劇場(芝居小屋、官許)には中村座、市村座、森田座があったが、それぞれ定式幕の色と順序は違う。森田座の定式幕(茶、黒、緑=ちゃくみ(茶汲み))が今の歌舞伎の定番となったわけだが、それは森田座の座元である守田勘弥(十二代目)が、9代目團十郎や5代目菊五郎と結びついて歌舞伎を国民的芸術にしようとしたことによる。
- 歌舞伎のト書きは、必ず「本舞台三間の間」と書くが、実際は十間あってもこう書いた。そうした定式だったからである。これはもともと能の舞台がそうだったからであり、能の伝統を踏襲していることを示したいためである。
- また、床の高さも、高足、中足、常足といった三種類を使い分け、高貴な人から一般庶民までを床の高さで表すようにしていた。つまり様式でさまざまなものを表現するということが行われていた。
- ルールをゆるく作っておき、しかもそのルールはきちんと守るというのが歌舞伎のやり方であり、封建制社会の方法論でもあった。
- 江戸歌舞伎を知るためには顔見世狂言を知る必要がある。
- 顔見世狂言は毎年十一月に行われるが、特殊なスタイルを持つ歌舞伎である。
- 江戸歌舞伎は「三建目」が一番最初の幕である。じつは、この前に「序開き」、「二建目」とあるのだが、これは下っ端役者が行う。つまり前座のようなものであり、芝居の本筋と関係が薄い。実質的な本編は三建目から始まるのである。
- 当時は一回あたり二カ月で計年間六回の興行を行っていた。一年間の興行は同じメンバーの役者で行われるが、その契約した役者を勢ぞろいさせるのが顔見世狂言である。
- 一月から六月にかけては半年をかけて「曽我狂言」を行っていた。また、上演時間は日の出から日の入りまでで、短くても八時間を切ることはなかった。
- 本来は一幕=一番であったが、内容が複雑化し、一番目が序開き、二建目、三建目・・・と膨大になっていき、物語も三建目、四建目、五建目、大詰という「起・承・転・結」という四幕構造を持つようになっていった。こうして一番=四幕という定式をもち、一番が物語として完結するという構造を持つようになった。
- 毎年毎年曽我狂言をやるというのは、寅さんを正月にみるようなものである。文化というものはこうしたマンネリズムのうえに咲くものといえるかもしれない。初めて曽我狂言が催されたのが1696年(元禄十年)で演目の名前は「兵根元曽我」、初代團十郎が演じた。それから百五十年もの間「正月は曽我狂言」というスタイルが続いてきた。
- 5月は曽我兄弟が工藤祐経を討ち果たした月である。日本三大仇討ちとは、曽我兄弟と、赤穂浪士の忠臣蔵と、荒木又右衛門の伊賀上野(鍵屋の辻)の仇討ちである。この中でも江戸で曽我狂言がもてはやされたのは、曽我兄弟は唯一関東の人間(伊豆)であったということに由来する。(この話そのものは鎌倉時代の話)
- 「東男に京女」というが、男は力、権力を象徴するものであるのに対し、女は文化を象徴するものであり、女が文化を作ってきたとも言える。
- 「不動」は、市川團十郎が不動明王役で、一にらみすると悪人がたじたじとなってしまう。これは荒事の一つの形であり、神様芸でもある。
- 江戸歌舞伎では幕間の休憩は飲み食いと決まっていた。桟敷やお茶屋で飲んだり食べたりしていた。ミュージカルなどでは幕間は一回しかないが、歌舞伎では何度も幕間があった。
- 時代とは過去のことで、世話とは現代のことである。
- 江戸時代には個人主義はない。個人の頭で全体を考えるということをせず、自分と一致する人間像を歴史の中に探していた。
- 江戸のドラマツルギーは「勧善懲悪」である。それも、予定調和の勧善懲悪である。善人が悪人を懲らしめるのが荒事であり、善人が悪人によって虐げられるのが和事であった。
- 歌舞伎の役柄は大きく分けて三つ、
- 1.立役(たちやく)
- 2.女方(おんながた)
- 3.敵役(かたきやく)
- 女とはイコール若い女であって、女には悪い女はいないというのが歌舞伎の暗黙前提である。もし悪女が演じられるときは、それは女方ではなく、敵役が演じることになる。
- 当時は「強い」と「こわい」は同じ意味だった。今でも團十郎の襲名の際は「睨み」を行うが、強いことはこわいことなのだという名残でもある。
- 江戸の歌舞伎にはいくつかの特徴がある。そのひとつに、事実を劇に仕立ててはいけないということがある。江戸の正月は曽我狂言であった。しかし、幕末には飽きられ、逆に明治になると復活したりした。曽我狂言のラストを飾る「曽我の対面」は、もっとも正月らしい儀式性を備えている。これだけが正月に演じられるようになった。
- 河竹黙阿弥の作風は、幕末と明治になってからで違っている。黙阿弥は芸術家というより職人だった。作風は、幕末の白浪物=暗い作風から、明治は単純明快、明るい作風に変わった。
- 黙阿弥で、いわゆる歌舞伎の美学、たとえば七五調の台詞回し、退廃の美学、すべて黙阿弥で完成した。黙阿弥の作品は読んでみると退屈であり、一本調子でメリハリがない。しかし舞台となるとなぜか急に面白くなる。それは美学のたまものである。
- 「月も朧に白魚の、かがりも霞む春の空、つめたい風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ烏の只一羽、ねぐらへ帰る川端で、棹のしずくか濡れ手で粟−」この台詞は前後の脈絡を必要としない。逆に同じ「生世話(きぜわ)」で知られる鶴屋南北には読み下しの難しい台詞が出てくる。
- 鶴屋南北の時代には、まだドラマのネタは出尽くしていなかった。いっぽう黙阿弥の時代には出尽くしており、洗練を求めるという方向に向かった。
- 江戸の歌舞伎とはなんだか分からないものであり、そこが自分の好きなところでもある。
- 人生を悩む孤独な男、などのややこしいものは出てこない。そんなものに出てこられても困るからである。「悩み」は存在せず、すべて行動で解決してしまう。そして時間が来ると「今日はこれぎり」で終わってしまうという潔さがある。
筆者のテーマ、現代の歌舞伎ではなく百五十年前の歌舞伎、については、姿は何となく分かるが、その特有の定式、文法については、近代的なものの考え方では理解の及ばないところもある。
ゆるい決まり(定式)というものがあり、この中では何をやっても自由というのは、この演劇の世界のみならず、現代のわれわれの生活においても参考となる。
もともとの話(史実)をバラバラにして面白く再構成してしまう、また、情けない自分の姿を見つけ出して笑っていた、など、これまでの歌舞伎観とは大いに異なる視点を提供している。