内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書、2007年11月

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

■読むきっかけ

  • たまたま『義経千本桜』の「四の切」では佐藤忠信こと源九郎狐が主人公であり、日本人と狐の関係ってそもそも何だ?という疑問から。

■内容【個人的評価:★★−−−】

  • 昔、山里ではキツネや狸に化かされたという話をよく聞いたものである。しかし1965年を境にそうした話を全く聞かなくなった。なぜそうなったのか。

○第一章「キツネと人」

  • 古来から日本人はキツネをはじめ動物に対して人間以上の力を感じていた。安倍清明は実在の陰明師であるが、母親がキツネであるため超能力を持つと信じられていたようである。
  • キツネにだまされるという話にはいくつかのパターンがある。
    • 1.山登りなどをしているときに弁当などをキツネに持っていかれてしまう
    • 2.急に動けなくなったと思ったら荷物がなくなっていた
    • 3.人に姿を変えたキツネにだまされた

○第二章「1965年の革命」

  • 1956年ごろから都市部では高度経済成長により生活の形が変わっていくが、農村部にこれが及ぶのは1965年くらいからであった。また、教育により科学的な考え方が一般性を持つようになった。「村の教育」が廃れ「学校での教育」が一般的になった。
  • テレビなどを通じた情報伝達が一般的になり、口伝えが少なくなる。伝わる途中で話が大きくなったり内容が変わったりということが少なくなっていった。
  • 死生観が変わった。「自然と一体化する死」から、「死は個人のこと」と考え方が変わった。
  • 逆にキツネが変わったとする説もある。森が天然林が少なくなり、齢を重ねたキツネは暮らせなくなった。

○第三章「キツネにだまされる能力」

  • 山村では、地蔵信仰、修験道などさまざまな信仰と生活が一体になっていた。

○第四章「歴史と「みえない歴史」」

  • 国民の歴史、制度の歴史が歴史の主流となり、日々の暮らしについて、またその持っている意義について過少評価されてきたのではないか。キツネとの関わりはいわば「見えない歴史」として切り捨てられてしまった。

○第五章「歴史哲学とキツネの物語」

  • 知性を通してとらえられた歴史は、歴史の一つの側面に過ぎないのではないか。

○第六章「人はなぜキツネにだまされなくなったのか」

  • キツネとの関わりは、身体性、生命性の歴史であり、これは疑うことのできない歴史である。一方知性の歴史は誤りを生み出しかねない。

■読後感
着眼点が面白い。キツネにだまされるということ自体、伝統的な山村の生活とそこにおける人々の考え方、教育のシステムと大きな関わりを持っている。
少々、「思い」というものが全面的に出てしまっている。もっと掘り下げてキツネとの関わりの実態面を論じてほしい。知性の歴史を批判しているが、キツネのあり様について知性で叙述してしまった。歴史哲学との関わりは著者のメモ程度のものであり、本書への掲載は不要か。