小川忠『原理主義とは何か』講談社現代新書、2003年6月
原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで (講談社現代新書)
- 作者: 小川忠
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/06
- メディア: 新書
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○第一章「比較概念としての原理主義」
- イスラムにはスンナ派とシーア派があるが、スンナ派のイスラム近代改革と原理主義についてエジプトを舞台に考えたい。
- エジプトはオスマン帝国の属州であったが、ナポレオンの遠征により近代世界に引き込まれた。トルコやエジプトは西洋モデルを取り入れた近代改革を19世紀に展開した。一方で、アラビア半島内部では原理主義への回帰が進められ、後のサウジアラビアの建国につながった。
- エジプトではクトゥブというスンナ派の原理主義者が力を持つようになるが、ナセルにより66年に処刑された。しかし、翌年の第三次中東戦争において、エジプト・ヨルダン・シリアの連合軍はイスラエルの先制攻撃の前に6日間で敗退し、シナイ半島を奪われた。70年にナセルが急死すると、サーダートがナセルの路線を引き継ぐ形で大統領に就任した。
- しかし、サーダートにより経済開放政策が進められた結果社会の不平等が拡大し、また、イスラエルとの平和条約の締結、反対派の一斉検挙など、国内の不満が高まり、81年にジハード団により暗殺される。
- オサマ・ビンラディンはサウジアラビアの出生であるが、サウジアラビアはイスラム原理主義の母胎となった土地である。ビンラディンには思想的に新しいものはない。ほぼクトゥブの考え方を継承している。
- イスラーム原理主義者は、イスラームを国家運営の基本原理とし、イスラーム法による政治の実現を目指す。しかしスンナ派諸国では、権力を握ったのは世俗主義者だった。初めて世俗主義者から権力を奪ったのはイランである。
- 1925年、クーデターをきっかけに国王に即位したレザー・シャーはトルコやエジプト以上に性急な近代化を進めた。トルコ同様に西洋服着用やヴェールの禁止を法制化した。しかし、国内の不平等は大きくなっていった。またイスラーム法にかえて、近代的な民法、刑法、商法を制定した。
- ホメイニーはこうした政権下で何度か逮捕された。石油価格が上昇し、米国を中心とした外国資本の投資も増え、テヘランなどの都市インフラが整備されていったが、いっぽう不平等は大きくなっていった。こうした中、ホメイニーの息子が不可解な死を遂げ、また米国への不信も高まり、反政府運動が起きた。ホメイニーは海外から王政打倒の命令を発し、国王は海外へ脱出、79年2月にホメイニーはイランへ帰還し革命が成立した。
- 歴史を振り返ると、社会主義とナセルのアラブ民族主義に対抗するためにイラン国王の強圧的な近代化政策を支援した米国の対イラン政策が、ホメイニーのイスラム革命を生み、その波及をおそれてサダム・フセインに肩入れしたことが湾岸戦争をもたらした。冷戦期のイラン外交の失敗がさまざまな形でツケとして回ってきた。
歴史の流れを正確にトレースして現在の原理主義といわれる考え方がいかに形成されたのかを説明している。
原理主義=イスラムという考え方があるが、さまざまな宗教において、おかれた環境をもとに、ある種の社会運動であり、対立軸として原理主義が支持を受けている。
外との対話の拒絶の上に原理主義が成り立っている。しかし、そうした態度から望ましい解決は生まれない。