サントリー不易流行研究所編『大人にならずに成熟する法』中央公論新社、2003年4月
- 作者: 白幡洋三郎,サントリー不易流行研究所
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/04
- メディア: 単行本
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- 私たちは豊かなものを手にしつつ、不安がまき散らされている世に生きている。本当に足りないのは何か。
- 物が溢れていても心は乱れず、社会不安に満ち満ちた中にも心身ともに安定して生きている人々がいる。
- アリエスは、ヨーロッパ中世には大人と区別された子供が意識されていなかったとする。子供が発見されるのは17世紀であるとした。
- 日本でも近世までは子供も大人と同等の働き手として見ていたようだ。しかし、近代以降人生の中での未熟時代は長くなってきた。
- 自分の親は12歳で、自分の将来進むべき方向を決断している。未熟と成熟を区切るのは労働というわけでなく、大人としての気構えのあるなしだろう。親はまったく愚痴を言わなかった。
- 個人と官の間に、むかしは公があった。今はずいぶん公がやせ細ってしまった。成熟社会の判断基準として公がどれだけ機能しているかということがあるのではないか。
- 生きがいは事業の達成だけでなく、他人がどれだけそれを認めてくれたかが大きい。
- 人間というのは、ほかの生き物と違って「ただ生きるだけ」というのが難しい。「私がここにいることに意味があるのか」など意味を問わないといられない、欠陥動物のようなところがある。
- 人間は社会的存在であって、個人の生命を個人できちんと維持できない。他者との係わり合いの中で生きがいや生きる意味を見つけていく。
- 他者とのかかわりの中での自分の意味が生命に力を与えてくれるはずなのに、単体としての自分に重きを置きすぎている。
- この国にも、わずか三十年ほど前には「大人」というものがあった。しかしそれは実在ではなく若者がつくった幻影だった。
- 高度成長期になり、がむしゃらに働く大人と家庭で保護される子供という図式ができあがった。バブル崩壊以降、大人は自信や解決力を喪失し、大人はいなくなった。
- 現在課題解決能力が重視される。これは段階的な経験や学習で可能なわけではない。
- モンゴルの子供たちは「小さな大人」とよびたくなるほど自立している。
- 社会が成熟していくと、未熟な個人を許容できるようになる。逆に個人の成熟は、危機でも起こらない限り取り立てて必要ではなくなる。
○「いつでも未熟になれる社会」
○「社会と個の良い関係とは−「ボランティア」から考える」
- サラリーマンよりも職人になりたいという学生が増えている。
成熟とは、目標が定まっており、現実的な感覚を持って身の回りのさまざまなことに対応できる能力ではないか。また、これを遂行できる自信が処し方作法の洗練にも結びついてくるのではないかと思われる。ある意味では、橋本治さんのいう「「分かる」が当然」の時代であるからこそ成熟できたのではないか。
成熟を自覚するためには自分の評価軸がきちんと固まっていることだろう。
ある意味で「これは守りたい○箇条」みたいなものも本人がつくる分には意味があるのではないか。