熊川哲也『メイド・イン・ロンドン』文藝春秋社、1998年12月

メイド・イン・ロンドン

メイド・イン・ロンドン

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「インディペンデンス・デイ」

  • 1998年秋、10年間在籍したイギリスのロイヤル・バレエ団を退団した。
  • イギリス全体の景気は低迷しており、ロイヤル・バレエ団における公演も比較的費用がかからない過去の作品の再演がほとんどだった。ダンサーのギャラも上がっていなかった。
  • しかし、ロイヤルを退団したのはそうした理由からではない。過去の経験を活かして未知の世界に立ち向かいたいと考えていたし、その節目を10年経ったときか、古いオペラハウスが壊されたときと決めていたのだ。
  • 次のステップを意識するようになったのは、ボリショイで『ジゼル』のアルブレヒト伯爵を踊ったときだった。ボリショイは純血主義をとっているにもかかわらずそうした大役をゲスト・ダンサーである自分に託した。一方、ロイヤルは、これをジョナサン・コープが演じるものという固定的な役割認識をしていた。また、96年の夏から毎年日本で行っている自分のプロデュース公演『メイド・イン・ロンドン』をロイヤルをはじめとするバレエ団のプリンシパルが四人も五人も登場する刺激的なスタイルで行う中で、新しい取り組みに挑戦していきたいという考えを強くした。
  • バレエ・ダンサーは芸術家の中では最も肉体を酷使する。とりわけ男性のダンサーはダイナミックなジャンプやピルエット、女性ダンサーを支えるなど肉体的負担はより大きい。つまりピークの期間が短いのであり、残された時間でやりたいことに挑戦していかなければならない。
  • ルドルフ・ヌレエフは、50歳半ばで亡くなったが、直前までロイヤルのプリンシパルとして活躍していた。自分の一生を踊ることにささげたわけだが、「一度、舞台のうえで喝采を浴びた人間は、そう簡単には舞台を去れないんだ」という。たしかにヌレエフの気持ちは痛いほどよくわかる。
  • しかし晩年のヌレエフの踊りはやはり衰えていた。自分は「熊川哲也の踊り」ができる「今」を大切にしたい。
  • この10年でロイヤルからは数えきれない財産を授かった。15歳から26歳をロイヤルで過ごしたのだ。組織よりも1858年に建てられた古いオペラ・ハウスが壊されることに対して哀惜の念を持っている。

○第二章「バレエが僕を選んだ」

  • バレエとは10歳のときに出会った。至って普通の家庭であったが、祖父がレッスンの場を作っていた。
  • 小中学校時代はやんちゃ盛りで、衣装の着け方を間違えたり、靴を間違えたりし、よくこっぴどく叱られていた。当時はバレエは楽しかったけれど、習い事以上のものではなかった。
  • しかし中学2年で全国舞踊コンクールに出場し、9位という結果に終わったことで、毎日レッスン場に入り、自分一人で練習するようになった。自分一人の練習のときは、退屈な基礎練習は省略し、ジャンプやピルエットばかりをやっていた。バレエは他流の稽古をあまり行わない傾向にあるが、自分の師匠である久富先生は、いろいろな先生に任せられ、それがきっかけでバレエがさらに楽しくなっていった。
  • ロイヤルへの入学許可は高校1年生の1学期に来た。

○第三章「ローザンヌ国際バレエ・コンクールで金賞」

  • 最初チューリッヒや田舎のボズヴィルに滞在してレッスンを受け、その後ロンドンに移った。
  • ロイヤルにおける最初のレッスンでは、ピルエット2回と言われたが、エンジン全開で15回もやった。ジャンプも可能な限り高く跳んだ。その後、クラスメートの踊りをみたとき、正直言ってそれほどレベルが高くないではないかと拍子抜けしてしまった。
  • スクール時代、千円程度のTシャツをプレゼントした。ロイヤルを退団する少し前の稽古でその友人がそのTシャツを着ているのを見、イギリス人があまりにも物もちがいいのでびっくりしたことがあった。
  • スクールの授業は多種多様な内容で、これが午前9時から午後5時半まで続く。
  • またあれをやるのか、という気持ちから、さぼったり、先生のいうことを聞かなくなり、「ノーティ・ボーイ(悪ガキ)」と呼ばれ、退学勧告が日本の両親に送りつけられたりした。
  • しかし、スクールでの評価は高く、ロイヤル・バレエ学校の代表としてマリインスキー劇場で踊ったり、マーガレット王女の臨席のもと5つの作品中3つに出演したりした。
  • そんなことから、自分にはもう学ぶものはないと勘違いし、コンクールやオーディションを受けてABTにでも入団したいと思うようになった。そんな中ローザンヌ国際バレエ・コンクールに出場することとなり、その直前に団員が西洋人だけのロイヤルから正式契約しないかと持ちかけられ、2・3日後にOKした。
  • ローザンヌで行われたヨーロッパ地区予選では『ドン・キホーテ』のバジルのソロを踊り、本来拍手が禁止されているにもかかわらず、拍手歓声が鳴り止まなかった。その後、東京の青山劇場で準決選と決選が行われ、ここでもバジルのソロを踊り、金賞と高円宮賞を受賞した。

○第四章「プリンシパルへの道」

  • 日本人初のロイヤル・バレエ団員としての毎日が始まった。意外と歴史は浅く、現在のロイヤル・オペラハウス(コヴェント・ガーデン)を拠点とするようになったのは、1946年からである。レパートリーが非常に幅広い。イギリス内外で年間200ステージ、一人のプリンシパルは年間70〜80ステージを務める。
  • ロイヤルは細かく階級が分かれている。
    • 1.アーチスト(スクールを卒業したばかり。コール・ドを踊る)
    • 2.ファースト・アーチスト(たまにソロを踊る)
    • 3.ソリスト
    • 4.ファースト・ソリスト
    • 5.プリンシパル
  • カンパニー・デヴューを果たしたのは1989年4月で、ブリストルでの公演だった。アーチストの一人が怪我をしたための代役である。その2週間後『ロミオとジュリエット』でいきなりソロを踊ることとなった。
  • その年の7月に契約更改があり、てっきり自分はソリストになれると思っていると、言い渡されたのは「コルフェ(ファースト・アーチスト)」だった。その席で、必死にソリストにしてもらうよう訴えたところ、一瞬の沈黙ののち、机をポンとたたいて、「よし、ソリストにしよう」と答えが返ってきた。
  • ロイヤルに入団以来順風満帆だったが、1990年1月に『シンデレラ』の道化役を踊っているときに、ジャンプの着地に失敗し、骨折して半年間舞台から遠ざかった。
  • しかし怪我から復帰すると、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で『白鳥の湖』のパ・ド・トロワを務め、十分にアピールした。そのツアーの最中、ファースト・ソリストに昇格し、怪我をしたダンサーの代わりに『ラ・バヤデール』のソロルを踊ることとなった。公演日まで4日しかない中で稽古に没頭した。この日は、お忍びでエリザベス女王とマーガレット王女が見に来ていた。これで成功を収め、大きな自信をつけた。
  • その翌年、入団4年目にしてプリンシパルへ昇格した。
  • プリンシパルになるのにさしたる努力をしたわけではなかった。できないものはできないというあっさりした考え方を持っている。

○第五章「バレエを愛している」

  • 観客席のざわめきが聞こえてくるころ、自分は寡黙になりこれから始まる舞台のシミュレーションを始めている。「あの音」=開幕のベルは、逃げ出したい気持ちを誘う。しかし19時半には必ず幕が上がる。地位が上がれば上がるほどナーバスになっていった。
  • 舞台は楽ではなく、苦しみそのものである。
  • 舞台のうえでは役に没入する。カーテンコールの瞬間にはじめて熊川哲也に戻る。公演が終わると達成感はあるが満足感はない。
  • 以前はテクニックがすべてだった。しかし、今はそれぞれの動きに込められている意味を考えている。
  • パリ・オペラ座バレエ団のシルヴィ・ギエムにもテクニックばかりという批判がなされたことがあるが、それは違う。テクニックに目を奪われて演技力のすばらしさに気がつかないだけだ。
  • 日本のバレエ団は、ロイヤルなどに比べると公演の回数が極端に少ない。したがって一回一回の公演が特別な機会であり「バレエは芸術」という意識が高まる。しかし、自分にとってはバレエが生活のすべてであり、バレエは仕事である。

○第六章「ロンドンから見る日本バレエ界」

  • イギリスのバレエ団と日本のバレエ団には根本的な違いがある。
  • 一度日本での公演に胃痙攣で最悪のコンディションのときがあった。その公演は当然ながら最悪の出来だったが、こんなときキャンセルすべきなのか、舞台に立つべきなのか。ここはキャンセルすべきだったという後悔があとで襲ってきた。日本であれば公演の機会は少ない。一つの演目について何カ月も準備をして臨んでいる。無理をしてでも踊るだろう。イギリスでは毎週のように公演を行っている。体調が悪いのであれば以後のことも考えて休むのが通例である。
  • ロイヤルではダンサーの権利が保証されている。毎月の給料が保証され、怪我をした場合は医療費が支払われる。しかし、日本ではダンサーが稽古を行っても1日数千円しか支払われない。バレエシューズも公演回数分しか支給されない。踊ることだけで生活できるのはごく一部のトップ・ダンサーだけである。
  • ロイヤルの月給は、プリンシパルでも月100万円程度である。あくまでも上流階級の楽しみであり、テレビ放映もほとんどなく、スポンサーもつきにくい。このため、ロイヤルのプリンシパルといってもほとんどの人は知らない。
  • 稽古は必ず終了1分前に終わる。これに対し、日本ではえんえんと稽古を続ける。しかし内容の濃さではイギリスの方が上ではないか。
  • 日本では元ダンサーが引退後教室を持つことが多い。これはお稽古ごととして根付いているためである。これに対し、イギリスではバレエに関わる仕事を続けるのは難しい。プリンシパルやファースト・ソリストまで経験したダンサーはバレエ・マスターや振付師、芸術監督という道に進めるが、ソリスト、アーチストクラスだと難しい。
  • 1997年に新国立劇場が誕生し、定期的にオペラ、バレエ、演劇の公演を行うようになった。日本のバレエ界が大きく変わるのではないかという期待が集まっている。自分はゲスト・ダンサーとして『眠れる森の美女』を踊ったが、新しいシステムが根付くまでには時間がかかると思う。ヨーロッパにおけるバレエの歴史は500年あるが日本では80年くらいである。
  • 新国立劇場の問題は、マネジメント部門のスタッフである。たまたま新国立劇場に配属されて一生懸命バレエについて勉強しましたといった感じだった。ダンサーにいい環境を用意し、いい舞台をいかに作るかというより、いかに経営を成り立たせるかということを優先させているようだった。
  • バレエ教室の多さに比べ、バレエの観客人口は極端に少ない。夜は酒というサラリーマンが多すぎる。日本では結局劇場に足を運ぶのは一部のバレエ・フリークか若い女性だけであり、男性は極端に少ない。イギリスでは夜の遊び場は少ないから、今日はバレエを見に行こうということになる。観客層が厚く、男性とくに年配の男性が夫人や恋人をエスコートしてくる。劇場は社交場としても機能しており、おしゃれをして出かけ、幕間にはワインを傾ける、こんなことも含めてバレエなのだ。
  • 日本人の協調性は、世界に出ていこうとするときかえって欠点になる。周りに煙たがられようとも、自分の考え方は大いに主張した方が良い。お酒を飲みに行くよりバレエを見に行く人がいてもいいはずだ。

○第七章「恋愛は人を成長させる」

  • 恋愛には言葉が重要だ。言葉がないと伝わらない。最初に付き合ったベッキーとは3、4カ月で自然消滅した。
  • 5歳年上のヴィヴィアナ・デュランテと恋愛をしたが、最後の一年間はごたごた続きで滅入った。分かれ方も後味が悪かった。それ以降も、恋愛はするが長続きはしていない。

○第八章「付き合いのスタイル」

  • 唯一の趣味は車だ。日本では2台目のフェラーリに乗っている。
  • 何度か命に関わるような事故も経験している。

○第九章「第一幕が始まった」

  • 『メイド・イン・ロンドン』の取り組みを行っているが、新しい試みを取り入れるが基本は絶対に崩さない。
  • バレエにエンタテインメントを持ち込んでもバレエの伝統、芸術性を捨ててはいけないと思っている。
  • 思い入れのある作品は以下のとおり。