佐伯啓思『自由とは何か』講談社現代新書、2004年11月
- 作者: 佐伯啓思
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/11/19
- メディア: 新書
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- 「自由」という概念は、近代社会でもっとも尊重を必要とされるという地位を得ており、法律など国家制度でも個人の自由と公共の利益の関係性において語られることが多い。
- ではいったいこれほどまで重視される自由とは何か、制限はないのか。
○第一章「ディレンマに陥る「自由」」
- 誰もが自由を最も大切に考えている一方で、人はそれに飽きているように見える。
- 政治学や社会学においては1980年代末から自由論はホットなテーマであった。「自由の基礎づけ」「自由の正当化」「リベラリズムの理論構成」などが論じられてきた。また、経済学でも「新自由主義」を中心に、経済活動の自由を実現することがもっとも重要と考えられてきている。
- 一般の人々はこうした自由論の盛り上がりとは無関係に、関心はむしろ衰弱してしまってきている。
- 近代社会は、すべての人の「生命、財産、自由」を確保する運動から始まったとされる。生命、財産については確保されれば興味を持たれないが、自由についてはそれが実現している社会においても大きな関心を持たれる。
- アレクサンドル・ゲルツェンは、「人間の中で自由を求めたものは少数であるのに、人間の本質は自由であるという。これはどうしたことか」という問いに答えを見つけるのが本書の目的である。
- イラク戦争において日本人三人が拘束されたとき、自己責任論が語られた。しかし、自己責任だから国家が個人の生命と財産を守る役割を負わない、という考え方はおかしい。
- 1997年に酒鬼薔薇事件が起きた。「なぜ人を殺してはいけないのか」との少年の問いに誰も明確な答えを用意できなかった。以前は道徳が自由より優位であったが、今は自由が優位に立ってしまい、すべてを論理立てて説明することが求められるようになってしまった。
- 標準的な政治思想史では、社会や国家に先立って「自由な個人」が発見されるのが近代の意義であるという位置づけをしている。
- 近代的な自由の観念はホッブズが生んだものである。
- 理由もなくだめなものがあるといわざるを得ない。こういったのはカントであった。カントはキリスト教徒であり、その倫理観をふまえていたためにこうした言い方ができた。
- 近代人は、自由こそが人間の本質であるという思想に取りつかれている。しかし切迫した抑圧のない中でこれをいう理由がどこにあるのか。
- アイザイア・バーリンは、自由を「積極的自由」(〜への自由)と「消極的自由」(〜からの自由)と分け、後者により大きな価値をおいた。
- 近代的自由の基本は消極的自由である。
- ムーアは、善と正を分けて考える。「何が善であるか」は「どういった状態が人間にとって善であるか」ということであり、「何が正しいか」は「どういう行動をするのが正しいのか」ということである。
- ムーアは、善について、友愛に満ちた人との交わり、美の鑑賞であると考えた。これはケインズにも影響を与えた。ケインズは、印象派の紹介や絵画の普及、劇場を設立してロシアのバレエ団を呼んだりした。直覚的に美は分かるものと考えた。
- ロレンスはこれをエリート的であると嫌悪した。
- ウィトゲンシュタインは、善を議論すること自体意味のないものと考えた。
- 実証主義と情緒主義が主体としての個人という考え方を生んでいる。
- 自由の衰弱には、一方でこれを拘束する規律や道徳の衰弱がある。
- 近代社会は次の三つの価値で動いている。
- 1.生命至上主義
- 2.抑圧からの解放
- 3.合理的な実証主義
- 自由も平等も重要な価値にはちがいないが、重要なのはそれを通じて意義ある生活や活動が実現されるからである。
- 3つの原理は「何か善いもの」と切り離して、それ自体で最高価値であるとみなすわけには行かない。
- ニヒリズムに陥るのではなく、共同の善を見つけ出していくことが必要であり、それは可能である。
- 社会の成立には犠牲者は必要である。われわれは犠牲者に対する責務、共同体に対する責務を負って生きていかなければならない。
- 人間はただぼやっと日常生活の中で生きている。「選択の自由」といってもいろいろなものを選んで買い込んでいるくらいの話に過ぎない。
- 本当の自由とは、次のようになる。「人間は死すべき有限の存在であって、その自己の死という根本的な事実を見据えて、死へ向かって自分を投げ出していく。このとき人は、彼の本来のあり方を問い直そうとする。そこに本当の人間の自由がある。」
- 死を前提にして初めて人間は本来やるべきものを取り戻すだろう。宿命を自覚するとは、結局猶予期間である自分の生に意味を与えるものはいったい何かを自問することだ。
- こうした決断は、自由というより義ではないか。
- これまで自分はリベラリズムに対し違和感を感じてきた。リベラリズムとは別の視点で自由を論じられるのではないかと考えてきた。
- もう少し体系的に論じたかったけれど、これが今のところの到達点である。
自由というけれど、それは手段にすぎず、それより先のものを見据えて始めて自由が本当の意味を持つ。それが死を認識し、そこで自分が見いだす自身の本来的なあり方を考えることにあるという。これは、第六章における「犠牲者に対する責務」「共同体に対する責務」を認識することにつながる。
本書における論述の趣旨とは違うが、第三章で出てくる「正」「善」「美」というのは一つの(主観的な)価値基準となりうるものだし、自由を自己目的化するのでなく生きていく中で「正」「善」「美」を求めるための手段として尊重すべきということになるのだろう。
視点はかなり本質的なところを突いており、類書とは異なる。ただし、まだ学術論文を継ぎ合わせたような感があり、読者にとっては全体を貫く筋が明確に見えずらい。今後、より著者ならではの視点にウェイトを置いて再構築されるべき書であると思われた。