五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』講談社現代新書、2001年12月

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○一章「サティアンが投げかけるもの」

  • オウム真理教サティアンは、否定的に語られることが多い。この反対概念としては、法隆寺シャルトル大聖堂のような建築物がある。
  • ふつう、教祖の存命中に優れた建築は完成しない。それは新宗教も同じである。最初は信者も少なく、魅力的な教祖がいるのでわざわざ建築する必要がない。
  • オウム建築も事情は似ており、サティアンスタイルは仮の形でしかない。
  • プロテスタントから分派したシェーカー教やアーミッシュは、厳格な教義により装飾を排している。これには、共同体的な宗教であり、外部への布教にそれほど力を入れていたわけではないこともある。
  • 一方でカトリックの教会は彫刻、絵画、ステンドグラスで飾る石と化した聖書のようなものである。
  • 宗教改革を掲げたプロテスタントは、形骸化した儀礼やメディアとしての大聖堂を否定した。また、活版印刷術を利用し、聖書への回帰を主張した。
  • オウム真理教は全財産をお布施として差し出させ、上九一色村で共同生活を営んだ。これはシェーカーやアーミッシュの態度に近い。もともとは天理教も反建築的だったのである。
  • 新宗教の建築へは強い偏見がある。古建築であれば、その由緒が語られるが、新宗教の建築については建設費が語られ、うさんくさい話題となる。メディアにとって、新宗教の巨大建築は信仰の堕落であり、悪の象徴である。一方東大寺のような既成宗教の巨大建築は美の対象となる。これは、近代国家とマスコミが広めた、新宗教=淫祠邪教観に根差したものである。
  • われわれは現代のポストモダン建築や過去の大聖堂については語ることができても、現在の宗教建築を語る言葉を持っていない。
  • 新宗教の建築は、その教団の教義をふまえ現実の空間に反映させている。この本では、19世紀に登場した天理教金光教大本教をとりあげる。

○二章「天理教の建築と都市」

  • 天理教は1838年に中山みきが創始した。家族の祈祷中に神がかりとなり、神の言葉を語るようになった。
  • 創成期の建築は立派なものではない。中山みきは、「貧に落ち切れ」と述べて家財や田畑を処分し、困っているものに分け与えた。
  • 最初の30年は安産と病気直しが中心で教義は残していない。しかし、明治を迎え1869年以降神の言葉の自動筆記を始める。(教団では「おふでさき」という。)
  • 天理教には世界の中心をいみする「ぢば」という概念がある。これは教祖の家の庭に発見され、後継者は、ここを中心に建築と都市の造営を開始した。
  • 1887年、教祖が90歳で亡くなった。もともと115歳まで生きると明言していたので信者は驚いた。
  • 天理教の建築には、千木と堅魚木が一体化した特徴的な鬼瓦がある。また、鉄筋コンクリートの建築にも屋根瓦をつけるのも特徴的である。

○三章「金光教大本教

  • 金光教は、1859年、岡山の農民である川手文治郎が創始した。
  • 天理教とは異なり、門前町の拡張には消極的で、観光や遊楽の要素も少ない。しかし、取次と称する長時間にわたる参拝が通常であり、そのため、日帰りができず宿泊施設が多く作られた。
  • 教祖の存命中にはほとんど建築が成立しなかった。
  • 福岡高宮教会はもっとも独特の建築であり、シリンダーのような形となっている。
  • 大本教は1892年に京都府綾部で出口なおにより創始された。大工と結婚したが、夫が酒や芝居にのめりこみ生活が破たんし、子供もおかしくなってしまう。そんな中、もともと信仰心の強いなおは神がかりとなった。亡くなるまで膨大なお筆先を残し、後継者の出口王仁三郎が編集した。
  • なおは建築に興味がなく、初期の建築には見るべきものはない。
  • 王仁三郎は神殿を作ったが、内務省ににらまれ、破壊するよう命令を受ける。
  • 二次大戦中はさらなる弾圧を受け、建築物の破壊のみならず、信仰に関するものはすべて焼却されたり捨てられたりした。

○四章「戦後の新宗教空間」