山田登世子『ファッションの技法』講談社現代新書、1997年9月

■内容【個人的評価:★★−−−】

  • ファッションが大好きで、専門家というわけでもないのにファッション論を二冊も書いてしまった。

○1「女は誘惑する?」

  • その日の服を選ぶのに10分から15分、その後メイクに10分、毎日鏡をみて過ごしている。
  • 自分のおしゃれだけでなく、他人のおしゃれにも関心がある。センスがいい、俗悪など何らかの評価を下している。
  • 女はなぜおしゃれをするか?それは男を誘惑するためである。
  • ファッションという身体表現において男と女は対等ではない。
  • 好きな男の眼に自分を美しく輝かせるおしゃれは、女にとって胸はずむ快楽である。性的価値があるのは女であって、ファッションとはその価値を際立たせることになる。目的のある楽しみなのだ。誘惑的な女ほど多数の男の欲望をひきつける。男は求め、女は与えるのであって両者は対等ではない。
  • ジンメルは、男に対する女の関係はイエスとノーに尽きるといった。またコケットリーを「イエスとノーを同時に言うこと」と定義している。
  • コケットリーとは決断を引き延ばす技法である。「あれかこれか」をはぐらかして「あれもこれも」にしようとする。女はゲームを続行しようとし、男は所有を望むという図式は昔から変わっていない。
  • 愛の遊戯形式、最終的なイエスをもらうためでなく、男と女がいるというそのことだけを楽しむための行為もある。

○2「「隠すこと」と「見せること」」

  • ファッションとは、着衣によって自分を隠しつつ、隠すことによって自分を見せる技法である。最近のトレンドになっている透ける服、ストレートに肌を見せるわけではなく、隠しているわけでもない、こんな服はイエスとノーを同時に言っている。
  • 隠すことは自分をよりよく差し出すことであり、衣服をまとうことは、裸体以上に自分を引き立てる技法である。
  • 女はファッションとともにあり、ファッションが女を作る。「ある」と「ない」を同時に言うのがスカートである。19世紀までは、クリノリン・スタイルで完全に脚を隠していた。当時は、絹ずれの音と靴がフェティッシュの対象だった。風と共に去りぬスカーレット・オハラを思い起こしてほしい。また、女はあくまでも家の中にいた。
  • こうしたくびきを放ち、女を外に出したのは、ココ・シャネルである。今では、シャネルというと高級品のように思われるが、当時、シャネルは「ハイ・スタイル」の否定者として現れた。
  • 林真理子がメトロポリタン・オペラ・ハウスにドレスを着ていこうとしたがどれもしっくりこない。シャネルを着たらしっくり来たという話を残している。しかしシャネルファッションの生誕時はあくまでもアンチ・豪華が基本的な考え方であった。女性の服にポケットをつけたのもシャネルである。シャネルは飾り立てるモードを否定した。さらにいうと、女を男の飾り物から解放したのである。活動性と実用性を服装に持ち込み、女を外に出したのである。
  • シャネルは躊躇なくスカート丈を短くした。ミニ・スカートは秘められていた「女」を外に出したのである。
  • 色の幅もシャネルにより大きく広がった。黒や紺や茶のようなダークカラー、ベージュなど地味な色を身に着けるようになったのはシャネル以来である。
  • シャネルは存在の深いところでクラシック(つまりコケットな)女である。愛されることが女のすべてであり、それ以外に必要なものはないと言っている。
  • これに対し、コケットリーそのものを否定したモードがある。それは川久保玲のコムデギャルソンである。コムデギャルソンの服は、身体にフィットさせることをしない。このノン・フィットの考え方は、どこか日本の着物に似たところがある。三宅一生の考え方もこれに近い。「一枚の布」がコンセプトである。拘束感がほとんどない。
  • コムデギャルソンといえば「黒」である。たしかにシャネルの流れをひいているが、性についてもノーという黒でありシャネルとは異なる。ある意味で性の喪に服している。

○3「《現在》にときめきたい」

  • 1997年のバーバリーの広告のコピーは「きょ年の服では、恋もできない」であったが、その通りだと感じた。しかし、カッコよくありたいのは、この場合相手の異性ではなく、不特定多数のマスに対してである。今というときに参加したいという欲望に支えられている。言い換えれば、他人と同じでいたいという考えである。「目立ちたい」けど「目立ちたくない」という言葉もこの心情をよく表現している。
  • ブランドは、それにより商品の価値を何倍にも高めることとなる。しかし、自分はノーブランドの服が好きで、最初はマックス・マーラが好きだった。しかし日本に上陸するとともにやめてしまった。一方、誰でも持っているルイヴィトンの、ロゴ模様のバックが嫌いだったが、歴史を研究するうちに、買うことはないと思うが興味を持つようになった。
  • トレンドは誰が作るのだろうか。ファッション産業か、デザイナーか。そうではない、そのときそのときに受け入れられるかどうかは偶発性のたまものである。
  • あえていえば、モードを作るのは、口コミも含めたメディアである。また、モードは進歩しない、変化するだけである。

○4「ファッションは終わりのない遊戯」

  • モードは絶えず変化する。女にとってファッションは快楽である。女は服の数だけ自分がある。
  • 自分はソニア・リキエルをよく着るが、これは肌に貼り付くコケットな服である。シャネルやコムデギャルソンと同じく黒を使うが、非常にフェミニンな感じが好きだ。コムデギャルソンは性から無縁な感じがして香水なども付けたくなくなる。
  • 女はなぜ化粧をするか。それは、身体が第一の衣服であり、これを装飾するためである。そして男を誘惑しまなざしを幻惑するのだ。そして、誘惑こそは弱い者の戦略である。女の魅惑は、外のままで内をのぞかせることである。