津金澤聰廣『宝塚戦略』講談社現代新書、1991年4月
- 作者: 津金沢聡広
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1991/04
- メディア: 新書
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- 阪神や京阪電車は最初から都市間の連絡のための路線として建設された。一方阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道は、沿線がまったくの田園地帯であり、有力寺社への連絡手段でもなかった。このため、乗客誘致のために住宅地を作ることが構想されたが、時間がかかるので、まず宝塚にレジャーセンターを作ることとなった。
- 小林一三によるレジャーセンターの構想に当たっては、当初から女性や子どもを意識した設計になっていた。1914年には婚礼博覧会が開かれ、その余興としてプールを改造したパラダイス劇場で宝塚少女歌劇の第一回公演が無料で開かれた。
- 女性だけの出演者による歌劇・舞踊団で80年近く続いている人気芸術集団は世界でも珍しい。生徒総数(1990年現在、宝塚歌劇では女優と呼ばず全員生徒である)360名にのぼる。これに付設の宝塚音楽学校があり、毎年40〜50名の生徒を募集している。予科、本科の二年の修業課程を卒業すると、4月に宝塚大歌劇で初舞台を踏み、研究科1年となりその後各組に配属される。西洋オペラが分かりにくかった時代に、西洋楽器と日本調歌謡との素朴な和洋折衷方式でささやかな出発を飾った。
- また、大阪毎日新聞社とタイアップして、新聞を通じ広く紹介していった。「団員はいずれも近畿良家の子女の教育あるものを選び、これに音律の教育を授け音楽と舞踊に熟達せしめたる上、初めて舞台に上したるだけありて、年齢の少なきにかかわらず、何れも驚くべき巧妙なる技芸を発揮し居れり」などという文言もみえる。公演は連日満員の大盛況、大好評であった。入場料をとって行われた第一回公演は「ドンブラコ」(1914年4月1日)であった。
- 東京でも、帝国劇場(1918年)、歌舞伎座・新橋演舞場(1928年)に公演が行われ、いずれも好評であった。
- 1921年には宝塚少女歌劇は二部制となり花組、月組が誕生した。また、1924年には4000人収容の宝塚大劇場が誕生する。
- 東京に進出した宝塚が東宝である。その一歩は、1934年の東京宝塚劇場の竣工である。1937年には帝国劇場を吸収合併している。料金も松竹方式の花柳界と直結する芝居とは異なり、安く設定した。また、劇場への入り口や見物席の椅子席の質を平等にした。
- 工場労働者や市川、船橋、千葉の人々のために江東楽天地(遊園地や映画劇場)もつくられた。
- ターミナル・デパートを作ったのは阪急が最初である。オリジナルの商品を沿線の農家とタイアップして作ったり、食堂を最上階に設けたり、豪華な建築、画廊・古美術・貴金属や展覧会など情報・文化空間として構成した。
- このターミナル・デパートの成功を受け、大阪では南海高島屋、そごう三宮店、近鉄百貨店、東京では浅草の東武百貨店、渋谷の東急百貨店が開設されている。
- 産業化とともに大阪はスラム化していった。良質の住宅を供給することを目的に小林一三は沿線の住宅地開発を推進した。阪急ニュータウン第一号は池田室町である。
- 池田室町は、たんなる分譲住宅ではなく、自足したコミュニティを志向しており、ローン形式を初めて導入した。小林は欧米の「郊外ユートピア」の取り組みに目配りをしていた。
- 東では東急の五島慶太が沿線への学園誘致を進めており、小林はこれにならった。(関西学院、神戸女学院)
- 小林はたんに住宅地を作るのみならず、そこにおける家庭像を描き、伝統的な女性の結婚とは別の姿を説いた。
- また、演劇についても一部の貴族やブルジョアのためのものでなく大衆が楽しめるものを志向した。演劇における音楽も、悲しげな音楽の三弦でなく学校から習っている西洋楽器を使うべきだとした。