齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』講談社現代新書、2008年5月

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

■内容【個人的評価:★★★−−】

  • かつて日本人の代名詞は「勤勉」だった。しかしそれは神話と化してしまった。学び嫌いというか、直接的にいうとバカが多くなってきた。
  • バカとは、生まれつきの能力や知能指数ではなく、「学ぼうとせず、ひたすらに受身の快楽にふけるあり方」のことである。そもそも学ぶ意欲とは未来への希望と表裏一体のものである。
  • もともと日本は学び好きの国民であった。幼児期から寺子屋論語を音読、筆写していた。今では、学校で授業中勝手に歩き回る子どもが多い。「学ぶ構え」さえしつけられていないのだ。寺子屋では学ぶ構えのない子は机と一緒に帰された。親はあやまりにきた。今ではそんなことをするとモンスター・ペアレンツがやってきて権利主張するだろう。
  • どうして日本人がこんなことになってしまったのか、これがこの書の問題意識である。

○序章「「リスペクトの精神」を失った日本人」

  • 日本では確実に「バカ」化が進行している。OECDの学習到達度調査でもどんどん順位を落としつつある。
  • なぜ学ばなくなったのか。それはリスペクトの精神を忘れたからである。何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身を重ね合わせるという心の習慣を失ってしまった。
  • ある時期を境に、日本ではバカでもいいじゃないかという空気が漂い始めた。
  • 日本では明治時代以降、「書生」という社会システムや旧制高校教養主義を通じて自己形成していく若者が数多くいた。今は、自分という核を持たず、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけである。これを自分探しなどと称して助長する仕組みは1980年代にできた。この傾向はインターネットの普及により広まった。
  • 以前は、一週間分の食費を切り詰め、書店に並んで西田幾太郎の本を買い求めるという時代があった。
  • 今は社会がフラット化している。これをテレビが助長している。知性を引きずり下すのが面白いという構造を作っている。
  • 教育現場でも、勉強しない学生が勉強する学生より圧倒的に多い。むかし先生には威厳があった。今はサービス提供者になってしまった。
  • 情報を消費するだけの人ばかりの社会では価値を生み出す意欲に欠ける。
  • フラット化社会の中でどこまで踏みとどまることができるか、これが日本が直面する大きな課題である。

○第一章「やさしさ思考の落とし穴」

  • 下宿で一晩中語り合うというようなことが失われた。一人暮らしがなくなり、何でも自分でやるということがなくなっている。飲み会を企画しても人が集まらない。濃い付き合いを避けるようになってきている。
  • 1対1のコミュニケーションも苦手である。知らない人との世間話はなおさらである。他人とのゆるやかな関係が構築できない。自分が裸にされたり、実力を試されたりということが苦手である。競争には参加せず、しかしユニークと認めてもらいたいという都合のいい欲求が目立っている。
  • 就職がすべてになってしまい、自分で知識を貪欲に求めることをしない。読書量も激減している。
  • せっかく就職しても三年以内にやめてしまう若者も多い。いつでも自分を作ることができるという根拠のない見込みがあり、また、いったんやめた後、どんな現実に直面することになるのか分かっていない。
  • 今は求人状況が好調だが、就職氷河期の渦中にあった人は生涯設計が組めずにいる。アルバイトで食いつなぐライフスタイルに慣れてくると、さほど将来が不安に思えなくなる。
  • 若者の精神を表すキーワードは「やさしさ」である。それまでは真善美、正義、天下国家であった。
  • やさしさとは傷つきやすさでもある。物質的な社会に所属せず外れていたいといった立場である。会社で遅くまで働き、その後も飲み会で会社を語る、といったことがない。
  • 小学生で英語を教えるより、きちんと日本語の使い方を学ばせるべきである。

○第二章「学びを奪った「アメリカ化」」

  • 戦前には、ヨーロッパやロシアから思想的な影響を受けていた。これが戦後アメリカ一辺倒となった。その先駆的な存在が石原慎太郎である。戦前はクラシックを聴いた。戦後はロックになった。
  • バブル時代は三高といって、高学歴、高収入、高身長がもてはやされたが、今はイケメンかどうかに変わってきた。以前は向上心を持っているかどうかが人間判断の基準だった。
  • 白人より黒人文化に傾倒する者が増えてきた。ラップなどという言葉をちぎって投げるような音楽、ズボンをずりさげて歩くスタイルなど、こうした若者には教養への志向性はない。
  • 精神の柱を失い、金銭至上主義になりつつある。ヨーロッパでは階級と金銭は直結しない。心の豊かさを志向し、お金などという下品なことはいわない。
  • 低収入の人は激増し、高収入の人も微増している。中収入の人は減っている。富の分配の偏りと固定化が進んでいる。

○第三章「「書生」の勉強熱はどこへ消えた?」

  • 先生の家に寝泊まりして勉強し、家の手伝いもする「書生」がかつていた。おごらず高ぶらず、常に勉強し続ける存在だった。
  • 身体性を重視し、開放的で深いつきあいの中で自らを育てていった。

○第四章「教養を身に付けるということ」

  • 旧制高校ではたとえば西田幾太郎『善の研究』は必読書だった。文系理系を問わず哲学を学んでいた。外国語も英語だけでなく、ドイツ語、フランス語などが勉強されており、そうした国の文化や教養に接する機会が少なくなかった。
  • 日本の教養主義は明治末期に成立し、大正時代には修養主義から独立してエリート文化として自立した。
  • 旧制高校では哲学を学びながら自分の思考の基本スタイルを確立していくというプロセスがあった。
  • また哲学のほかにも一般教養を重視していた。
  • ただし、実生活とはかい離している側面もあった。ここにマルクス主義が入ってきて、たちまちのうちにソクラテスではなくマルクスが読まれるようになった。しかし、教条主義的な考え方は、自らの思考という面からは縁遠いものだった。

○第五章「「思考の背骨」再構築に向けて」

  • 読書を通じて他者と静かに対話する習慣が極めて重要ではないか。
  • 実存主義でいう「投企」を積極的に行うべきではないか。

■読後感
たしかに大学という場には「学び」の面白さを伝えてくれるといったすぐれた特性があった。また教養部における取り組みは社会、自分を見つめるのにあたりきわめて重要な位置づけを持っていたと思う。
ただし、京都の堀川高校で実践されているような、知的な好奇心をきっかけに学習するということではどこまでの機能を果たしていたか。
最終章の「思考の背骨」は鈴木庸夫教授が日ごろから言っていたことだろう。これが無いため、みな悩み、振れ、マスコミの言うことを鵜呑みにしてしまったりしているのだ。