春日武彦『幸福論』講談社現代新書、2004年10月

幸福論 ―精神科医の見た心のバランス (講談社現代新書)

幸福論 ―精神科医の見た心のバランス (講談社現代新書)

■内容【個人的評価:★★−−−】

  • 真の幸福は気の持ちようにある、嫉妬や被害者意識を捨て感謝の気持ちで毎日を過ごせ、という教訓は正論かもしれないがどこか不自然である。
  • 自分の幸福を1ダースほど書き並べてみたところ、「これで助かった」というエピソードが多かった。

○第一章「幸福の1ダース」

  • 「幸福なエピソード」と「幸福」とはニュアンスが異なる。前者は試験に合格した、宝くじにあたったなどラッキーな経験であるが、後者はある程度持続的な、また本人の生き方や考え方と密接につながったひとつの精神状態である。
  • 幸福を感じるとき、というのは、砂山にトンネルを作っていて貫通したとき、など何気ない瞬間であることが多いようだ。

○第二章「不幸の中の幸福」

  • 監獄に入れられるのはいやだが、独房でストイックな生活を送ることには魅力を感じる。重厚な本を読む、粗食に耐えるなど、簡素な生活スタイルになることにより自由のありがたみを感じるのではないか。
  • 昭和30年代前半の小学生のころに、父に後楽園遊園地に連れていかれたが、その際「回転する部屋」というアトラクションが印象に残っている。その管理人をして過ごすのも悪くないなと思ったことを覚えている。

○第三章「幸福と不幸の間」

  • 道はいくらでもつながっていくもので、終点などないが、道の終点はどこなのだろうと考えたことがあった。ある晩、その具体像が結ばれた。最後は直径3メートルほどの円形の空き地ではないかということである。その空き地の真ん中には噴水がある。
  • JR錦糸町駅の近く、江東橋4丁目の公園近くの5叉路、キッチンオオツカがあるところは岬の突端のようだ。そう考えるとささやかなうれしさを感じる。
  • 外来で訪れる神経症の患者は、表面的な訴えの下にあるのは、どうにもならない不全感と退屈という砂漠の真ん中に立たされた困惑であることが常である。
  • 世間には幸福そうだが不幸な人、不幸そうだが幸福な人たちがいかに多いことか。どうも幸福とは時間の流れの中に存在し、不幸とは時間の淀みの中に存在しているような気がしてならないのである。

○第四章「断片としての幸福」

  • 凄まじい家庭内暴力を示す青少年は診察室では借りてきた猫のようである。母親は、自分のことばかり話したがった。彼は、こちらが不幸ですねと認めたらうれしく感じたようだった。
  • つげ義春の短編に『退屈な部屋』という作品がある。夫婦でボロアパートに住んでいるが、近くの元赤線地帯に秘密で小部屋を一つ借りる。ここでごろごろしたりするのが幸福な一瞬であった。しかし、妻に見つかってしまい、その部屋がこぎれいにされてしまう。この妻には妙な健全さと力強さがある。
  • 自分の妻は、私が寝るときになるとひょいと猫を寝室に投げ込んでいく。なにか情味のある行動である。

○第五章「散歩者の視線」

  • これまでの話をみて、何かはぐらかされた感覚を持つ人も多いのではないか。しかし、たとえば恋愛の高揚感などは生理的反応のレベルであって、遅かれ早かれ幻滅や倦怠につながるのだから、語るに足りないと考えている。
  • 自分は、「見立て」や「ああ、そうだったのか」という発見を通じて幸福感を得ているらしい。
  • 知らない道を散歩することで世界の構造を垣間見た気分になり幸せな気分になることもある。

■読後感
とりとめがまったくない。ちょっと怒りに近いものまで感じそうなのだが、じつは著者の言うことはよく分かる気もする。
何か、世界が見える瞬間というものが、何年かに一回はあるような気がする。すぐに消え去ってしまうけれども。そんな瞬間、自分はまったく違う立場でものを見ており、自身の存在する世界も違うものとして感じられたりする。
世界が見えなくても、日常世界でなく異界にいるような感じを受けるときもある。何か「ズレ」としかいいようがない感覚である。
著者は、神経症の原因を「退屈」が作り出すものとしてとらえた。しかし「退屈」こそはすべて一般の人が有している感覚であり、それこそ異界に身を置くことでしか排除できない。幸福はそこから抜け出るときに味わえるということになる。