阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書、1995年7月

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • 私は社会科学といわれる学問の世界に比較的ながく身をおいてきたにもかかわらず、その叙述の形や概念になじむことができなかった。率直にいえば、いわゆる社会科学の作品の多くは著者の私というものがはっきりしないものが多いのである。
  • 講座ものといわれる種類の論文集の場合は、なになに論が大部分を占め、読もうとすれば大変な努力を要する。
  • ヨーロッパの場合は中世以来諸学の根底に共通の哲学、神学がある。しかしわが国においてはそれがないにもかかわらず叙述のスタイルがヨーロッパ型になっている。
  • われわれ日本人は社会を見るときに「世間」という視点をもっていたし、これには自己が密接にかかわっていた。しかし明治以降これを捨て、「社会」という言葉を選んだ。しかし、これは形だけの模倣にすぎず、一般の人々の意識からは程遠いものだった。
  • 学問の叙述は西欧的に、日常生活は古来の世間の意識で行われてきたが、これには問題があると考え、この本を書いた。

○序章「「世間」とは何か」

  • 男性は、わが国独特の人間関係の中で必ずしも個性的に生きることができない、これこそは「世間」の枠組である。
  • 世間を知らない大人は一人もいないが、世間をきちんと答えられる人もいない。
  • 西欧では個人があって社会がある。しかし、日本では世間は所与とみなされており、「そんなことでは世間に通用しないよ」といわれたりする。つまり世間は日本人の生活の枠組であるにもかかわらずその世間を分析した人がいない。
  • 夫婦や親子の葛藤にも「世間」は大きく関わっている。親は世間の怖さを知っているが、子は知らない。子に世間との葛藤させないと考えて行う行動が親子の葛藤を生んでいる。「理屈をいうな」という親の言葉は世間というものの説明が難しさゆえである。
  • 世間には、たとえば会社、同窓会といった形を持つものと、形を持たないものがある。世間には二つの原理、一つは長幼の序、もう一つは贈与・互酬の原理である。
  • 家族に犯罪者が出ると、家族はまったく関係がなくとも、世間をはばかって生きなければならない。
  • 「自分は無罪だが、世間をお騒がせした」という言葉がある。これはヨーロッパでは考えられない表現である。自分より世間の名誉を重んじている。
  • 一方で世間がなくなってしまったら、私たちの多くは困惑するだろう。
  • 夏目漱石坊っちゃん』では、こんなくだりがある、「考えてみると世間の大部分の人はわるくなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人をみると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。・・・いっそ思い切って学校で嘘をつく方とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。」
  • 世間は「非言語系の知」の集積である。
  • 我が国には人権という言葉はあっても個々人の真の意味での人権が守られているとは言えない。これも世間の中で許容されてきた。

○第一章「「世間」はどのように捉えられてきたのか」

  • 万葉集の中ですでに「うつせみ」という言葉を世間という意味で使っている。世間のうるささや世間とのたたかいが和歌の中に表現されている。
  • 自分の意見を述べるためにわざわざ世の人の評価を引き合いに出す場合もある。

○第二章「隠者兼好の「世間」」

  • 西欧化、近代化以前にすでに生活を合理化しようとした先達をもっている。それは吉田兼好徒然草』である。世間のしきたりを放下したとき、隠遁生活が成就すると言っている。
  • また、人のもとへ行って話をするのは、かえってお互い疲れることであり、用もないのに行くのは止めた方がよいと言っている。
  • よき人としては、
    • 1.深く立ち入らないさまをしている人
    • 2.知っていることでも物知り顔に語らない人
    • 3.よく知っていることでも口重く、聞かれない限りは話さない人 が挙げられている。
  • 兼好法師は世のはかなさを歌っているわけではない。その世の中でどう生きるかを歌っている。

○第三章「真宗教団における「世間」」

  • 親鸞の教えにより、真宗教団では寺院を持たず、道場を共同で維持し、平等な考え方を最初に打ち立てたという革新性を持っていた。
  • 魔界や怨霊を信ずることなく、独自な形で合理的生活様式をつくりあげた。
  • 徒然草では、金満家に対して、富を蓄積するのはもともとそれを使って望みをかなえるためではないのかと言っている。

○第四章「「色」と「金」の世の中」

  • 日本永代蔵では、地水火風空の五輪と生命を除いては、人間の願いは貨幣でかなうと言っている。
  • 二間間口の借家に住んで千貫の金を持つ人物(藤市)が描かれている。これは度外れたケチで金をためる人の代名詞となった。借家に住んでいるようでは一人前の町人として扱われないが、これをあえて自慢し、世間の流儀に従わず、個性的な努力で財をなした。一つの見識ともいえる。
  • 我が国ではじめて世間、世の中を対象化して捉えたのは兼好法師である。これに次いで西鶴もこれを捉えたが、西鶴は色と金、特に金の論理が貫かれる関係世界として描かれ始めた。

○第五章「なぜ漱石は読み継がれてきたのか」

  • 我が国でindividualの訳語として「個人」という言葉が定着したのは明治17年ごろである。しかし、現実には西欧的な意味での個人は成立していないところに西欧の法・社会制度が受け容れられ、資本主義体制がつくられ、こうしたものを社会ということとなった。
  • こうした中、公文書からは世間という言葉が消えていったが、個人の意識は十分な形で確立しなかった。社会という言葉は、法、経済制度、インフラなどの意味で限定的に使われており、世間という言葉の方が一般的に使われている。
  • 島崎藤村『破戒』では、社会という言葉に「よのなか」というルビをふっている。よのなかという言葉は、世間という言葉よりも広い意味で用いられている。
  • 漱石は『坊っちゃん』の中で世間をやっつけている。われわれはそれを読んで快哉を覚えている。
  • 漱石はイギリスでの暮らしの経験の中で日本とは違った個人のあり方を目撃してきた。漱石は、日本には個人がないといって慨嘆して済ますのではなく、社会と個人のかかわりを真剣に考えた。しかし、その際、西欧流の社会を我が国に仮定して日本の個人を捉えたところが彼の問題であった。世間というものが現実にはっきりした輪郭を持っていたにもかかわらず、漱石は社会と世間の区別をしなかった。
  • 漱石は個人と社会の問題を考えつつ、作品の中では世間や社会に対して背を向けた立場を選んでいる。
  • 日本では「個」としてのあり方を模索した人は隠者的な生活を選ばざるを得なかった。

○第六章「荷風と光晴のヨーロッパ」

  • 荷風は、フランスから帰った際、神戸港で弟の出迎えを受け、人間にとって血族の関係ほど重苦しく不快きわまるものはない、といっている。
  • 荷風も、日本の世間や世の中からできるだけ身を離し、世間的な付き合いを避け、非情に生きることを選んだ。そして、花柳界の女達や女給、私娼などに目を注いだ。
  • 金子光晴もパリに留学したが、帰国してから「寂しさ」をテーマとした作品を残している。
  • 日本人の寂しさの根源の一つには、日本人が古来結んできた世間という絆があるのではないか。

○「おわりに」

  • 古来、われわれは「世間」をままならないものとして捉えてきた。日本人は、例外的な人を除き、個人であったことはなかった。
  • 思いのままにならない世の中を嘆きつつ、思いのままに生きたいと考えてきた。
  • 世間を対象化できない限り、世間がもたらす苦しみから逃れることはできない。世間のあり方も考えなければならないが、その中における個人のあり方も考えなければならない。

■読後感
日本では、西欧的な社会制度と、日本古来の世間といった考え方がごった煮の状態にある。
社会という考え方は、物事を整理してとらえるには好都合だが、しかし、世間というものに動かされてわれわれは生きている。
世間というものが行動の原理をなすとすれば、経済活動もこれに影響されているといっていいだろう。
非常に重要な考察を行っている書であるが、これを突き通してより先の姿を見通すところまではいかなかった。