早乙女勝元『東京が燃えた日』岩波ジュニア新書、1979年6月

東京が燃えた日―戦争と中学生 (岩波ジュニア新書 (5))

東京が燃えた日―戦争と中学生 (岩波ジュニア新書 (5))

■読むきっかけ

  • 3月10日の東京大空襲により、否応なく親族(祖父)が亡くなった過程を知っておきたい

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「最初の敵機」

  • はじめての東京空襲は1942年4月18日のことである。真珠湾攻撃からわずか半年のことだった。都心部まで1235キロの地点で日本の哨戒艇に発見された空母ホーネットから16機のB25爆撃機が飛び立った。
  • 当時は、学校の大東亜地図に戦勝地を示す日の丸がどんどん広がっているところだった。空襲警報が鳴ったが、とても敵機来襲を信じることはできなかった。徳川夢声氏も、おだやかな日であり、空襲の演習なのかと疑ったほどだという。日本軍の放つ高射砲もお義理で撃っているようなもので、まったくあたらなかった。爆弾は荒川区尾久に投下され、最初の戦争犠牲者が出た。当初、非戦闘員の殺傷は禁止され、軍事的施設のみの攻撃とされたようだが、非戦闘員が殺された。葛飾区の水元の国民学校高等科生徒も、B25の機銃掃射により死亡した。
  • ラジオ放送では9機が撃墜されたといっていたが、誰も撃墜らしい場面を見ていないのだった。
  • 結局この16機は無傷で日本を通り過ぎた。しかし、目的地である中国などで着陸できず、全機失われた。しかし、東京初爆撃のニュースはアメリカ国民を歓喜させた。双方の力関係は逆転し、日本は追われる立場となった。日本軍の捕虜となったのは8名、うち3名を死刑としたが、国際法に違反するということで世界の批判を浴びることとなった。
  • これを受け、軍部は本土防空哨戒線を広げるためミッドウェー島攻略作戦に出たが、レーダーなど偵察力の差が歴然とし、米航空隊と機動部隊により日本連合艦隊は虎の子の空母4隻を失い、二度と立ち上がれぬほどのひどい完敗をした。
  • ここからアメリカは積極的な反攻を行い、8月にはガダルカナル島に上陸、雲行きがおかしくなってきた。

○第二章「少国民と神風」

  • この空襲を受け、東京市防衛本部はいっせいに防空・防火の義務を呼び掛けた。昭和17年夏から18年にかけては防空演習ばやりとなった。
  • 昭和18年にはガダルカナルでの敗戦で大本営は転進と発表したが、父親は敗退したのではないかと言っていた。また、山本五十六連合艦隊司令官の戦死のニュースが届き、騒然となった。このころから学校の先生は「神風」を強調するようになった。
  • その後、間もなくアッツ島玉砕、ソロモン諸島ニューギニアで押しかえされ、ギルバート諸島も落ちた。
  • 上野動物園では、昭和18年の夏から秋にかけ、動物園非常処置要綱で殺された。

○第三章「学童勤労報国隊」

  • 昭和19年6月、最初の空襲以来の空襲がやってきた。2年ぶりのことだったが、その間アメリカは手をこまねいていたのではなく、着々と足固めをしていたのである。中国奥地の成都からB29の大編隊が北九州工業地帯に現れ八幡製鉄所、長崎造船所をねらいうちした。サイパン島が陥落すると、B29の爆撃圏内に日本のすべての都市がおさまった。
  • 最初は防空壕にこもるのが楽しかった。
  • 昭和19年8月、学童疎開が始まった。国民学校初等科三年生から六年生までの生徒が、上野駅から連日のように縁者を頼ったり山奥の旅館や寺院への疎開が行われた。自分は昭和7年生まれだったが早生まれであったため疎開対象ではなかった。このため学徒動員の対象であり大空襲のすべてを体験することとなった。
  • 自分は久保田鉄工所隅田川工場でトロッコ押しをした。振り返っても厳しい労働だった。そして寒く、みな飢えていた。昼には労働者には豆かすの給食が出たが自分たちには何もなかった。持参の弁当を食べていた。
  • また、工場では朝鮮人の徴用工に対する凄まじいリンチの場も目撃した。上級生はトロッコに挟まれて骨が見えるほどの重傷を負った。
  • 動員がはじまってからは家と工場の往復である。月の初日のみ登校し、校長からの訓示があったが、空襲により被る直接の被害よりも国民の心の動揺を問題視していた。その訓示では、多く見積もって一回の空襲の死者は100人を超えることはない、東京700万人を皆殺しにするには7万回の空襲が必要で、そんなことは現実にはできないといっていた。そんな話を聞きながら、妙な違和感を感じたことを覚えている。
  • そんななか、土手でイナゴ取りをしているとB29が現れた。先生はどこかへ消えてしまい、警防団員から退避の命令がかかった。高射砲が放たれたが、まったくびくともしない。伏せながらその機影をみて「美しいな」と思った。これは偵察だったようだが、警報発令があったのは来襲のたった2分前だった。つまり、この時点で、警報はほとんど役割を果たさなくなっていたのだ。前は成都からだったが、今度の空襲はサイパンからだった。このB29も簡単に逃げ去っていった。その後も偵察機が何度かやってきたが、すべて取り逃している。高射砲は、敵機のはるか後方で炸裂していた。大人たちは、B29は我が国のいかなる戦闘機より速く、戦闘機の上昇不可能な高空を飛ぶとうわさしていた。それを聞いてぞっとした。もし高度1万メートルにたどり着いたとしても酸素マスクが必要で、機関砲を打ちたくとも零下40度で凍りついてしまっている。高射砲も9000メートルまでしか届かない。つまり、打つ手はまったくなかったのだ。
  • 偵察が終わり、本格的な空襲が始まったのは昭和19年11月24日である。武蔵野の中島飛行機工場が標的だった。工場のほか332戸の家が被災し、死者222名を出した。
  • 空襲警報がなると勤労学徒は家に避難してよいこととなっていた。われわれは空襲警報を心待ちにした。家にはあたたかい炭火があり、イモパンくらいのおやつがあった。一回でも満腹になれさえすれば、爆弾に命中して死んでもいいと思っていた。
  • 12月には計15回の空襲があった。計751名の死者を出して年が暮れた。翌昭和20年は元旦から空襲である。浅草方面が狙われた。
  • 鉄製のものはすべて兵器に回され、われわれは竹製のカブトと消火筒を使った。
  • 1月には頻繁に空襲があり、100機来襲し死傷者1581名を出した。あまりにも頻繁に来るのであだ名がつき、「B公」「Bちゃん」「お客様」「定期便」などといわれていた。
  • 2月にはB29のほか小型艦載機もくわわり、751機来襲し死傷者1947名を出した。しかし、このときまでB29の爆撃は軍事目標に照準を向けた精密爆撃だった。これが、季節風と悪天候にさえぎられ、成功をおさめなかったため、3月に入ると、非戦闘員の殺傷を目的とする無差別焼夷弾爆撃へと作戦が変更された。生涯忘れることのできない3月9日夜から3月10日未明にかけての大空襲がそれである。

○第四章「炎の夜・三月十日」

  • 当時銭湯は三日に一回しか開かれず、ものすごい混雑だった。湯も汚れきっており、父から風呂に行くかといわれたが断った。
  • 10時30分、警戒警報が発令された。その警戒警報が「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線付近ニ在リ」からなかなか旋回をしたりして近づいてこないので、寝床にもぐりこんだ。次に目を覚ましたとき、目もくらむばかりの光が目につき刺さってきた。「勝元、起きろ、勝元」という声で布団をはねのけた。玄関先に出ると、赤一色だった。空襲警報は鳴らなかった。父親が、「これは、いつもとちがう」と叫んだ。本格的な爆撃は10日を迎えて行われた。零時を知らせる打刻の後、深川地区に第一弾が投下された。木場二丁目付近に落ち、白河町二丁目、三好町一、二丁目付近にも落ちた。材木の町から火災が発生したのだった。続いて北砂、本所がやられた。江東ゼロメートル地帯は、火流線で包囲された。続いて、浅草、牛込、下谷、日本橋、本郷、麹町、芝が被弾した。
  • 7分遅れてようやく空襲警報が鳴ったが、この7分は決定的な時間となってしまった。北風がはげしく、火災にあおられた烈風となった。飛び火などというものでなく、激流のような炎となった。火の玉が家々をつらぬき、川をわたり、逃げ惑う人を渦の中心に巻き込んだ。
  • 火の海の中で、浅草観音堂の大屋根と五重塔から火柱が吹き上がり、大音響とともに崩壊していくのが見えた。東京の下町地域はほんの30分で火のるつぼとなったのだ。
  • わが一家は、リヤカーに生活必需品と家具の一部をくくり付け、避難を始めた。行動をともにした母や姉はほとんどその情景を記憶していなかったが、自分は鮮明に記憶している。
  • 水戸街道は人でごったがえしていた。みんな逃げ遅れていたのだ。上空を群れ飛ぶ敵機は、高度1万メートルで美しく輝いていたものとは異なり、超低空飛行で、ばかでかく、残虐そのものだった。突っ込んでくると同時に弾倉を開き焼夷弾をぶちまける、操縦席までもが見えるのだった。
  • 命綱で一団となって動く人々もいた。通りの真ん中にピアノが捨てられていた。凄まじい火の粉だった。火災は燃え上がるのでなく地上を水平に走っていた。
  • 結局私たち一家は、荷物をリヤカーごと失ったが、命だけは助かった。
  • 3月9日に宮城県小原村への学童疎開から帰ってきた小学生の一団があった。66名で、帰ってきたときは上野も変わっていないと喜んだのだが、翌日そのうち13名の命が失われた。
  • 避難しながら3人の子供を次々になくし、そして続く5月の山の手空襲では父母をも失った母親もあった。
  • 被害規模は、本所、深川、浅草、城東、向島の順で大きかった。隣の家まで焼けてしまっていたが、自分の家は焼け残っていた。しかし、それも5月の空襲で玄関だけを残す姿となった。
  • 火災のため川に飛び込んだ人も多くいたが、これも地獄であり、刺すような冷水が人々を飲み込んだ。女たちは子供をしょっていたが、みな死んでいて、気がふれてしまっていた。母親は顔を水面に出せたが、子供は出せずに溺れてしまっていたのだ。そして母親たちもその場に倒れた。
  • 自分は家の中にじっとしていたかった。死体を見るのが恐ろしくてならなかった。父親はおばあちゃんを確認するために、手当たり次第に死体を確認していった。
  • 3月11日の新聞は、「B29一三○機帝都来襲、戦力蓄積支障なし」という見出しだった。しかし、現実には10万人が一晩で死んだのだった。戦力蓄積支障なしとはなんとそらぞらしい言葉であることか。本所などは9割6分が焼けてしまっている。
  • 関東大震災の経験から1万の棺桶が用意されていたが、まったく足りないため、死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。10万5400体からなる犠牲者は、それ以外の空襲の犠牲者が1万人にならないのだから、ほとんどが3月10日の空襲の犠牲者と考えられる。そのほとんどは、銃後の母親、娘、年寄り、子どもたちだった。

○第五章「無差別爆撃命令書」

  • 3月21日、硫黄島守備隊が全滅した。アメリカの前線から東京までの距離はさらに縮まった。4月1日には沖縄上陸が始まり、3月10日以来ご無沙汰だったB29がふたたびやってくるようになった。もう燃えるものはないと高をくくっていたが、焼夷弾のほか、照明弾、爆弾、時限爆弾など次々と投下した。自分は、食い物と空襲警報を待つばかりの生活となった。何もなくなり、朝が来ても行くところがない。
  • 4月13日、敵は160機のB29で小石川、豊島、荒川、王子、淀橋へやってきた。また15日は200機が京浜地区へ来襲した。しかし死傷者は3月10日の15分の1だった。国民は、軍や政府の報道管制や宣伝にもかかわらず、火を消すより逃げることを考えるようになった。
  • 5月24日から26日にかけての大森、品川、目黒、渋谷、世田谷、杉並への空襲は家から眺めていた。焼夷弾12万2725個が一挙に投下、被害は山の手、多摩地区であった。近所の床屋のおじさんは見物していたところ、味方の高射砲の破片にやられて死んだ。
  • 規模はこのときの空襲の方がはるかに大きかったが、死者は3242人だった。なぜ3月10日の空襲は被害が大きかったのか。それは、地形の問題(川が多く、逃げられない)、家の構造の問題、当日の強い風に加え、人々の意識の問題(火は消さなければならない)がある。それから、非科学的な防空精神と防空体制、防空義務、当日のレーダーの照準が侵入高度8000メートルに設定されていたこと(実際は低空だった)など軍部の度重なるミスも大きい。
  • アメリカは日本の気象も調べ抜いていた。そしてハンブルクに対して行った絨毯爆撃を適用している。
  • アメリカの虐殺はこのようなものだが、日本も南京では大虐殺を行い、重慶に対して200回もの爆撃を行っている。
  • 東京大空襲を指揮した司令官ルメーはのちにベトナム戦争でB52による大虐殺を指揮した。この司令官は、日本の自衛隊設立に貢献したとして、のちに佐藤栄作により勲章が送られている。