高野慎三『つげ義春を旅する』ちくま文庫、2001年4月

つげ義春を旅する (ちくま文庫)

つげ義春を旅する (ちくま文庫)

■内容【個人的評価:★★★−−】

  • いくつかの大きな旅館を通りすぎた先に「湯小屋温泉入口」と書いた今にも壊れそうな案内板がある。そこから急な坂道を下っていくと谷底に一軒の木造モルタルの二階建てが目に入る。
  • 上越線に乗って水上温泉の二駅手前、後閑という駅に降り、バスで三国街道をまっすぐ二十分ほど行ったところの湯宿温泉がそれであった。バスを降りたところは大型トラックが疾走する殺風景な街道の街といった趣で温泉らしさがない。・・・これに続けて絶望的な気分になったと言いつつ、妙になじめるのだと述懐している。
  • 猫町紀行』では、一瞬の間、下町の路地裏のような賑やかさをもつ宿場町の情景をとらえたことを書いている。
  • 立石周辺の情景、赤線地帯、メッキ工場、また錦糸町での貧乏生活などがまんがに描かれている。
  • 武蔵野では、元赤線に使われていた部屋を借りる『退屈な部屋』や石を売ろうとする『無能の人』などに描かれる情景が描かれている。

■読後感
つげ義春、この人には、読み手である自分から見ると二つの側面がある。
一つは、何かわびしげと言えばいいのか、だが懐かしい情景を見つめる視線である。街道沿いのトラックがもうもうと砂煙を立てる横にひっそり立つうらぶれた商人宿のようなものがよく登場する。自分もそんな情景を車でドライブしながら見ているのだ。旅行に行っても、心に長く残っているのはうらぶれた民家の軒先だったりすることはないだろうか。
もう一つは、普通の人であれば絶対書かないことを書いていることである。他人には見せたくない側面ということが、とくに性的な嗜好などはそういった面があるだろう。しかしこの人は、恥ずかしくて普通は見せることのできない(これは、性的な嗜好そのものでなく、他者との関わりの中では見せたくない)部分を摘出して書いている。性的なことは健全なことであれば別に大して恥じることはない、しかし、日常の思考そのものが疑われるような行動といったものが現にある、それを書いているのだ。
こんな面で、つげ義春は、日本人の表層意識でなく実像を描いた数少ない作家ではないかと思える。
ただ、街道沿いの風景が陰鬱に見えるようになったのはいつからのことか。自分が小さいころはそれでも美しく見えたような気がするのである。