夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年8月
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1978/08/08
- メディア: 文庫
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○「道楽と職業」
- 職業は、開化が進むにつれてきわめて多く分化してきている。学問の世界も同じである。
- 職業が細分化するほど、われわれは片輪になってきているのではないか。隣のことも分からないようになってきている。昔の学者は、すべての知識を自分でしょっていたけれど、今の学者は自分の専門以外は分からないようになっている。博士などというものはその最たるものである。
- われわれは開化の潮流の中でどんどん不具になってきている。自分一人では生きられないようになってきている。
- 家業に専心するばかりではなく、時間をつくって文学書を読んで見てはどうか。文学書は専門のためのものでなく広く一般の人間を対象とするものであり、これを読むことにより、人間のつながりを回復することができるのではないか。
- 職業というものは、基本的に他人のためにするものであるけれど、科学者や芸術家などはこれと異なり、自分のためにという色彩が強い。
- 琥珀の中の蝿を見て蝿に定義をするように、本来は動いているものを、あたかも止まっているものであるかのようにとらえて定義を下すことが多い。これは物事をとらえやすくする反面、誤った理解にもつながりやすい。
- 開化の過程では、できるだけ労働を少なくしてわずかな時間に大きな働きをしようとする。一方で、道楽根性の方はとめどもなく前進している。
- 親父が無理算段の学資を工面して卒業の上は月給でもとらせて早く隠居したいと思っているのに、子供の方は暮らしのことなんかまるで無頓着でただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机にもたれて苦り切っているのもある。親は生計のための修業と考えているのに子供は道楽のための学問とのみ合点している。
- 開化につれて、人間が進歩するというより、もともとの自然的欲求に近づいていっているのではないか。
- 西洋における開化は内発的なものであった。これに対し、日本の開化は外発的にもたらされた。今まで内発的に発展してきたのに対し、自分の力ではなく、外から無理押しされてその通りにしようとしている。
- これは学問を例にお話をするのが一番早わかりである。西洋の新しい説などを生かじりにしてほらを吹くのは論外として、本当に自分が研究を積んで甲の説から乙の説に移り、また乙から丙に進んで少しも流行を追わず、自分の力で早く西洋人の達したところに追いついたとする。それであれば誇るべきことではあろう。
- 外国人に対して、おれの国には富士山があるなどというような馬鹿は今日はあまりいないようだが、戦争以後一等国になったなどという思い上がりを随所に聞く。できるかぎり神経衰弱にならない程度に内発的に発展していく以外にないだろう。
- 物の内容を知り尽くした人間はそれほど形式にこだわらないものである。
- 学者が無用とは考えていない。彼らが行う概括によってそれだけ便宜を得ている。しかし、彼らの性質として、対象から一歩退いて観察するという癖がある。こうして概括されたものは、一見わかりやすいが、中味としては一向にまとまっていないということもある。
- ちょうど文法を勉強しても会話はできず、和歌の形式は理解しても和歌を詠むことはできないのと同じである。
- イギリスへ留学し、三年間英文学を勉強したが、ついに文学とは何か分からずじまいだった。そこでは、文法や文学の知識ばかりを詰め込まれたのである。
- 教師にはなったものの、教育に魅力を感じることはなかった。
- 日本では西洋で流行っている学説を、腑にも落ちていないのに我が物顔でしゃべって歩く者が多い。
- その後、文芸に関する自分の立ち位置を固めるため、「自己本位」で科学的な文献や哲学などを読みあさった。これにより自分の不安は消えた。多年の間悩んでいたが、つるはしが鉱脈をとらえたような気分になった。
- みな同じように悩んでいるのではないだろうか。もし、何らかのこだわりがあるのなら、それを踏みつぶすまで進まなければだめだ。
- イギリスは自由を重んじる国でありながら最も秩序のある国でもある。自分の自由のみならず他者の自由をも考えているのである。義務の観念を離れない程度に自由を行使している。義務心をもたない自由は本当の自由ではない。
自分の腑に落ちていないにもかかわらず、これが新しい理論だともてはやすということ、これはまさに指摘のとおりである。腑に落ちるためには自分の考えを筋道立てて組み立てる必要がある。
漱石は、講演を聞いても外の涼しい風に吹かれたらすぐに忘れてしまうでしょうといっている。借り物の知識にはすべてこのようなところがある。考えを借りるにしても、本当は著者と同じ問題が自分に与えられていたらどんな考えの組み立てをするだろうか、というプロセスと、その上で著者の考えとの対話がなければならない。