エドワード・J・デント(石井宏・春日秀道訳)『モーツァルトのオペラ』草思社、1985年3月
- 作者: エドワード・J・デント,石井宏,春日秀道
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 1998/12/10
- メディア: 単行本
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○1「古典としてのモーツァルト」
- フィガロの結婚(1786年)は、今ではどこの国でも最も有名なオペラといえようが、これも最初のうちはプラハ以外では当たらなかった。フランスの観客にとっては水割りではない本物のボーマルシェのほうがいいに決まっていたろうし、イタリア人は確実にロッシー二の理髪師のほうが好きだった。
- コシ・ファン・トゥッテほど哀れな運命をたどったものはない。二十世紀以前には成功らしい成功を収めたところはない。
- 魔笛は、ドイツでは成功し広まったが、イタリアでは早い時期に数回上演されたのみであった。
- 皇帝ティトゥスの慈悲にいたっては、作られたときからすでに時代錯誤の作品であり、博物館行きが決まっていた。
- モーツァルトのほとんどのオペラは19世紀のはじめにイタリアで上演されているが、これは当時ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェなどがオーストリアの治下にあったことが背景としてある。
- モーツァルトのオペラは、二重唱などがしばしば静かに終わる形をとる。逆に言うと拍手をするタイミングが難しい。イタリアという国では拍手がないということは自動的に失敗を意味するのである。
- ヴェルディにとってモーツァルトはさほど重要な作曲家ではなかった。彼はモーツァルトを四重奏曲の作曲家ということばで片づけている。
- 1900年になって、ようやくコヴェント・ガーデンは、すべてのオペラを原語で歌うという原則を適用するようになった。
- 当時のモーツァルトは、ずたずたに編曲されて上演されていた。
- オペラの不道徳なヒロイン、たとえば椿姫やカルメンがドイツ人の心の中に多少でも響くようになるのは、19世紀も終わり近くなるまで待たねばならなかった。
- モーツァルトを正しく再発見したのはわれわれの世紀であったし、われわれのジェネレーションであった。モーツァルトとは、空想的な無邪気の時代を表現したものでもなければ、もちろんロココの人工装飾の世紀という同じく空想的なものを音楽で描いた人物でもなく、完全に成熟した大人の作曲家である。
- オペラとピアノ協奏曲はモーツァルトの姿をもっとも身近にみることのできる作品である。
- モーツァルトといえば、必ずハイドンやベートーヴェンが引き合いに出されるが、この二人とモーツァルトの創造精神はまったく異なった方向のものである。二人におけるオペラの位置づけはそれほど重要な位置を占めてはいない。
- フィガロの結婚は、劇として上演され大成功を収めていたが、反体制的であるという理由で禁止されたりしていた。モーツァルトは、イタリア・オペラの形に焼き直せば許可されるかもしれないという見込みがあった。
- 台本をつくったダ・ポンテによれば、フィガロの音楽は6週間で作曲されたとのことである。
- 四幕もあるフィガロは、なんらかのトラブルを起こしたと思われる。フィガロが長い理由は、非常に多くの事件が詰め込まれており、歌手は各自のアリアを要求することにある。
- 昔のオペラ・ファンにとってフィガロの主な聴きものといえば「恋とはどんなものかしら」であり「楽しい思い出はどこへ」「手紙の二重唱」「早く来て、あなた」などであるが、男の歌手におこぼれがあるのは「もう飛ぶまいぞ」くらいであった。しかしこのオペラの最高の曲は第三幕の六重唱「彼の母親だって!」ではないか。
- 初夜権というのは、教会が持つ権利で、新婚の夫婦が床入りするにあたり許可を得るものである。フィガロで登場するのは、MarchetaあるいはMaritiagiumと呼ばれる、農奴の娘が他の領内の農奴の男に嫁入りする際の代償としてのことである。