堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中公文庫、1974年12月
- 作者: 堀米庸三
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1974/12/10
- メディア: 文庫
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○「死と生誕」
- 375年、中央アジアの遊牧民フン族が大挙してヴォルガ川をわたり、アラン族へ襲いかかった。これが、ゲルマン民族大移動、東・西ゴート族の移動の狼煙となった。フン族は、その異様な外貌にもより、古来ヨーロッパでは非常に恐れられていた。
- フン族の起源は匈奴ではないかという学説もあるが、定説はない。前3世紀の万里の長城建設とともに方向を西に変えて移動していったようだ。
- ゲルマン民族は農牧業中心であり、土地不足となり部族相互の争い、ローマへの侵入につながっていった。ただし対抗していたというより、人質の交換や商業などによるつながりがあった。
- 民族大移動は、東ローマにはそれほど影響がなかった。東ローマ周辺のトラキア、マケドニアは被害を受けた。
- ユスティニアヌスは527年から東ローマを治めイタリア、イベリア半島南部、アフリカ北部を再征服し、ローマ法を打ち立てた。
- イタリアは神聖ローマ帝国の支配下となる。
- 中世は自力救済が常態であった。また保護と従属という関係が広く行き渡っておりこれが中世社会の特徴である。
- 外民族の侵入がやみ、封建制に基づく国家が成立した11世紀からヨーロッパの様相は大きく変わる。大開墾時代となり、また三圃農法の普及により農業が集約化された。通行税は国王の財源となり都市と商工業が発達した。俸給による役人制も採用された。
- レコンキスタの開始(11世紀)
- 東ローマの弱体化、回教徒による侵攻に伴い、アレクシウス一世は西方に救援を求めた。これに応じ法皇ウルバン二世は自分の出身であるフランスの封建騎士軍を確保、異教徒への聖戦と殉教の栄光を訴えた。また、聖地奪回の大義を説き、金銀財宝、婦人の美しさまで強調した。
- 1096年に出発した三隊はコンスタンティノープルで落ち合い、小アジアへ侵攻していった。騎兵5万、歩兵1万5千、当時としては非常に大きな遠征軍であった。
- 内部でも分裂をしていた十字軍であったが、2カ月の凄惨を極めた攻城戦でアンティオキアを落とし、1099年7月15日、六週間の攻囲ののちエルサレムを落とした。
- エルサレム攻略はもっとも血生臭い戦闘であった。ソロモンの寺院には血の川が流れたという。