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富岡儀八『塩の道を探る』岩波新書、1983年9月

塩の道を探る (1983年) (岩波新書)

塩の道を探る (1983年) (岩波新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○「はじめに」

  • 近世日本の陸上交通路は、海岸に沿った縦貫路と山脈を越え山をぬう横断路に分けられる。塩の道は、横断路の根幹をなし地域の幹線路として社会的・経済的に大きな意味を持った。
  • 塩の道と地域の形成は密接に関連しあっている。
  • 塩は生活必需品であるため、どんな山間僻地へも万難を排して運び込まれた。

○第一部「日本の塩」

  • 製塩法は、岩塩や塩湖などを利用する内陸塩と海水からとられる海塩とに大別できる。
  • 日本では、海水を濃縮し、煮詰めて塩をとる方法から塩田法へと移行していった。満潮時よりも高いところに築く「揚浜式」が主流であったが、海水を塩田までくみ上げる不便さがあり、「入浜式」(瀬戸内・九州)に移行していった。これは近世のはじめころから始まり、急速に全国に広がった。
  • 一方、山塩は会津の熱塩など一部の地域で生産されてきた。
  • 昭和42年に従来の塩田法からイオン交換膜法に転換された。赤穂の塩田も昭和46年12月に完全に廃田化された。

○第二部「塩の道探訪」

  • 塩には、真塩と差塩があった。真塩はにがりのない精製塩で、食用や醤油の醸造用に利用された。一方差塩はにがりを加えたもので、漬物用、魚の塩蔵用に好適であった。
  • 西部地域では塩の運搬に北前船が利用された。
  • 下総の行徳は、幕府の強力な援助により二十六の塩浜村と370町歩の塩田を持つ関東最大の製塩地となった。江戸湾岸では、津田沼船橋、葛飾も入り浜式塩田が行われていた。
  • 瀬戸内の塩は良質で安いということで、菱垣回船が活動を始める1619年頃には江戸へも運ばれるようになり、1726年には167万俵に達した。一方江戸の塩田は元禄期までには半ば以上が廃田となった。