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佐和隆光『経済学とは何だろうか』岩波新書、1982年2月

経済学とは何だろうか (岩波新書)

経済学とは何だろうか (岩波新書)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○1「経済学は〈科学〉たりうるか−時代・社会と理論の有効性」

  • 私自身、アメリカの大学で経済学の教師を務めてみて、北米における主流派経済学の成り立ちが、北米社会の文脈に根深く依存するものであることを身を持って痛感した。
  • 1950年代後半から1960年代にかけて経済学を学び始めた経済学徒には、パラダイムの持つ「ものを見えなくさせる構造」のため、社会科学が時代と社会の文脈に依存することが見通せなかった。ベーコン主義者の語る「客観性の神話」が自明の理であるかのように信奉されていた。
  • 近代経済学は、これまでの社会科学と異なり、数学を駆使し、古典からではなく教科書から学ぶといった性質を持つ学問として現れた。また、たんに現象を解明するばかりでなく、所与の社会目標を達成するための最適な政策を理論的に導出するという政策科学としての構図を描いていた。科学万能主義という当時の時代思想とマッチしていたのである。
  • 近代経済学者は、帰納主義や論理実証主義を利用することで他の社会諸科学とりわけマルクス経済学との間に明確な境界設定をしようとした。
  • 1950年代から1970年代前半にかけては、新古典派の経済学とケインズ派の経済学が、それぞれの役割分担を明確にしたうえで米国における主流派経済学の地位を占有し続けてきた。新古典派の経済理論は、完全競争などの仮定のもとに、市場機構が最適な資源配分に導くことを「数学的に」証明し、ケインズ派は、自由放任ではなくある程度の政府介入が必要不可欠であることを主張する。この相反するかのようにみえる経済理論はアメリカの経済学者によって巧みに総合され、新古典派総合の経済学としてその後の四半世紀アメリカの価値規範の一部となった。
  • 自然科学の教科書が国によって内容が異なることは考えにくいが、経済原論の内容たるや千差万別である。
  • 官庁エコノミストは過度に介入主義でもあり、新古典派経済学者の目には理論的に誤っているように映っただろう。後に、1960年代後半にもなると官庁エコノミスト新古典派の考え方を支持するようになっていった。ただし、新古典派の考え方を受け入れているのは日本においては狭い学者共同体である。これがアメリカになると家庭の主婦にまで理論の共有領域を広げている。
  • 新古典派の経済理論の原型は、1870年代の限界革命にさかのぼる。これは17世紀に生まれた西欧近代科学の基本的要素である要素論的な考え方と数量的世界観を背景にしている。これは、ホッブズ等による個人を社会の最小構成要素とみなし、その個人のふるまいの集計として社会を理解しようとする考え方である。
  • 社会認識における数量的方法は、17世紀イギリスの統計学者ウィリアム・ぺティの『政治算術』(1690年)を先駆として成立したといわれる。
  • 1870年代にヨーロッパにおいて生まれた新古典派経済学は、1930年代以降はその展開の舞台をアメリカ大陸に移し、精緻な体系化をなしとげた。しかし、その経済学はヨーロッパに逆輸入はされなかった。たとえばフランスでは新古典派は主流というには程遠い存在である。イギリスにおいても然りである。新古典派が社会の文脈に適合したのはアメリカだけだったのだ。
  • 日本では、たとえば南北問題など一般の人々も関心を持っている問題に対し新古典派が明快でわかりやすい説得力のある解答を出しているとは信じられていない。どちらかというと、金森久雄氏や竹内宏氏のような「実感派」エコノミストが支持を受けている。
  • 一方新古典派は、特有の専門用語(ジャーゴン)を多用し、これが分かりにくさに輪をかけてしまう。専門用語はほとんど英語からの翻訳であり、日常使う言葉に特殊な意味付けをされた言葉が多い。いわく家計、企業、市場、競争、効用などである。これが限界効用逓減の法則、顕示選好の理論、貨幣の流通速度となるとずいぶん仰々しくなる。
  • さらに、経済学者が使う特有の論法は、要素論的かつ機械論的色彩の強いものである。
  • ケインズ経済学は、新古典派批判の経済学として現れたものである。ケインズ経済学と日本社会の文脈には何か共通するところがあるのではないだろうか。ケインズ経済学は、新古典派と異なり、市場の自動調節機能を信頼せず、また集計量から出発しており、方法論的個人主義もとっていない。つまり新古典派ケインズ経済学は根本的なところで相対立しているのに、サムエルソンは無理やり統合あるいは折衷しているのである。そうした矛盾が近年頭をもたげ始め、超新古典派ケインズ主義を攻撃しており、アメリカのケインズ主義は瀕死の状態にある。
  • なぜ新古典派と異なり、ケインズ主義は日本に受容されたのか。中村隆英氏は、高橋是清は1929年にケインズ理論の柱である乗数効果を直感的にさきどりしていたという。そして高橋財政により日本は昭和恐慌から目覚ましく回復した。アメリカで拒絶反応を引き起こした、国家介入、経済計画という発想は我が国では肯定的に解された。第一次吉田内閣の石橋湛山大蔵大臣は、当時の経済情勢をケインズ的に理解し、復興金融公庫の設立、積極財政を推進した。また1948年の経済復興五カ年計画もケインズ主義的色彩の強い「計画」であった。
  • 一方、自由主義者ドッジが来日して設定したドッジ・ラインは国家介入を否定し、財政の均衡を一義とする古典派的均衡財政主義をかかげるものであった。これによりインフレは終息の気配を示したが不況は強まった。ここからの復興は、1950年の朝鮮戦争によりもたらされたものであり、これは「受動的な」ケインズ政策であった。
  • 経済学の当時の状況としては、現象の分析を新古典派の枠組で行い、政策は飽くまでもケインズ主義で行うというものである。
  • 当時は、昨今勢いを増している、貨幣の安定供給を経済政策の根幹に据えるマネタリストや小さな政府論の影響力はまったく微々たるものであった。
  • 今日ある経済学を、中立的かつ普遍的なものと決め込むのではなく、それを支えている理念や概念装置をひとつひとつ再検討することにより経済学の全体像を描きあげることが経済学をめぐるさまざまな問題を解き進めることにあたり不可欠である。

○2「制度化された経済学−1950-60年代のアメリカ」

  • 米国においては、経済学は自然科学や技術と同じように一個の制度として社会に組み込まれている。逆にいうと、このように経済学の制度化を行ったのは米国以外にない。
  • レーヨンフーフッドは「エコン族の生態」(1973)という論文において、経済学者集団(エコン族)は政治学者や社会学者より優越感を満喫しており、その中での階級は、数理経済学>価格分析>国民所得分析>経済発展論>実証的研究の順となるとした。要はモデルづくりの腕前で階級が決まるということである。
  • 60年代後半にはラディカル派が現れ、新古典派経済学の現実への不適応を指摘したが、その指摘が的を得たものであったにもかかわらず、70年代中ごろには新古典派はもとの位置に坐っていた。
  • アメリカの価値規範は「合理主義」である。日常的な人間関係や社会契約の一切合切をとりしきる根本原則となっている。合理主義者というとき、意味するのは、何らかの公準のようなものがあり、これにしたがってすべての意思決定を行おうとする態度である。これは新古典派経済学が前提とする合理主義的個人であり、この集合としての社会が予定調和へ向かうこととなる。
  • 経済は、労働と資本を提供することにより賃金・利子を得て欲しい財・サービスを購入する「家計」と、労働を購入し、資本を借用して財・サービスを生産する「企業」の集合体として成り立っており、家計は財・サービスを消費することによって効用を得、労働することによりマイナスの効用を得る。一方、企業は利潤を最大化するよう生産量を決定し投入する資本と労働の組み合わせを決定する。この家計と企業の行動は財・サービス及び労働・資本の「価格」を基準に決められるが、「価格」は、主体が無数に存在する社会において、個々の家計や企業のとる行動は価格に影響を与えない、という完全競争の前提をまずおくこととなる。そして、価格と生産量の調整に関しては、市場という架空の概念装置をおき、「神の見えざる手」といういわば仲買人により均衡価格と均衡取引量が実現するという説明を行っている。
  • こうした枠組の経済は、ある特殊な意味において最適(パレート最適)であり、アダム・スミスの「見えざる手」の神格性が証明される。これを「厚生経済学の基本定理」という。
  • 新古典派の描く経済は、数学的な定式化が可能なように構成されており、そこに盛り込まれた一切の前提を認めてしまえば、そこから先の論理の進展は数学的演繹以外の何者でもなく「真」である。しかし、導かれた結論は反証不可能なもののように見受けられ、ポパーのいう有意味な科学的命題とは言いかねるところがある。
  • 現実には、人間活動はすこぶる多面的である。しかし、新古典派経済学は、そうした人間活動の中で数量化しうる経済的特性のみを抽出して理論体系を構成している。
  • 科学が制度化されたのは19世紀のことであったが、経済学が制度化されたのは1950年代であった。
  • アメリカの企業や官庁が経済に関連のあるなにごとかを企てようとすれば、博士または修士号を持つエコノミストの書く経済理論的に首尾一貫した処方せんを必要とする。エコノミストの処方せんは、正統派経済学の分析枠組みに従っていることが何より肝心である。
  • アメリカではビジネス・スクールもおびただしく存在するが、そもそも経営術は教科書で学べるものであるのか。こうした学習が経営者としての実践的手腕に資するところははなはだ僅少であろう。しかし、アメリカでは役に立つ、立たないは別としてこうした機関や肩書が制度化され、MBAを持っている人を人事上専門職扱いするということにつながっている。
  • 経済学の制度化は、1929年から33年にアメリカに起こった世界大不況、1941年から45年の第二次世界大戦を契機とする。この期間中、GDPは半減し、失業率も25%に及んだが、当時のフーバー大統領は均衡予算主義者であり、不況のさなかに増税をして財政の均衡を保とうとして失敗した(古典派)。1933年に政権を担当したルーズヴェルトは反介入主義から介入主義へ方向転換し、ニューディール政策を実施し成功する(ケインズ派)。これにより、ケインズの考え方は、実践がその学説を意識していたわけではなかったが一定の地位を占めるに至った。
  • 一方、ハーバード大学は景気予報を行っていたが、大不況後、すぐに景気は回復するだろうと、単純なモデルと指標をもとに予想し、失敗した。これを見た楽天的なアメリカの経済学者は、理論と計測を精緻化すれば解決できると考えた。この時期(1930年代)は、ヒックス、クラインが難解なケインズの『一般理論』を簡潔な数式で表したり、クズネッツがアメリカの国民所得統計を過去にさかのぼって推計しようとつとめた。
  • 第二次世界大戦中は、原子爆弾、レーダー、ロケット、ペニシリンなどと並んでオペレーションズ・リサーチを研究成果としてもたらした。これは、ある状況下で最適な戦略を探索するための数学的方法である。ここに確率・統計の考え方が適用された。これは、人間の行動、社会の現象を数学的に解析するという営為の先駆となった。
  • そうした研究に携わった数学者の幾人かが、戦後本格的な経済学研究に転じた。ケネス・アローミルトン・フリードマンなどである。そして戦後数カ年で計量経済学が樹立され、経済モデルの現実データへのあてはめが行われた。
  • このような過程で、経済学の大衆化(大学院卒業者)、教科書化(難解なケインズの一般理論を読むのでなく、国民所得分析、価格理論を読む。標準的教科書の存在は、学問が規格化されていることを意味する。)、モデル学化(現実よりも理論としての美しさを重視。標準的なモデルの大半は1960年代までに出尽くしている。)という三つの特徴が生まれた。
  • 標準的なモデルとしては、多部門成長モデル、景気循環モデル、動学的レオンチェフモデルなどがある。
  • 今も昔もヨーロッパの社会科学系の学会では、少数の才能ある人々が、古典を読み、ジャーゴンにとらわれない闊達な議論を通じて自由に発想を展開している。
  • 本来経済学は、資本主義経済の運動法則の解明を目指し、諸矛盾の解決の方策を思案する、気宇壮大な学問であった。スミス、マルクスケインズは言うに及ばず、マーシャルやワルラスも、現実の経済に対する深い関心とユートピア的情熱を持っており、不朽の名著を残した。一方で現代の経済学者は、膨大なモデルを残しているものの、名著はこの30年間で一冊も出ていない。
  • 科学哲学者カール・ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で、ヘラクレイトスプラトンから始まり、ヘーゲル、コント、ミル、マルクスなどに共通する歴史主義から解き放ち、漸次的工学になることで社会科学が「科学」になるとしている。ポパーのいう歴史主義とは、歴史的な予測が社会科学の主要な目的であり、その目的は、歴史の進化の基底にある律動、類型、法則、傾向をみようとするものである。漸次的工学とは、社会全体を再構成する手法は存在しない、小さい調整や再調整により目的に到達しようとする立場である。ポパーは、経済理論以外の社会諸科学は歴史主義的方法のしっこくから免れていないとする。
  • モデルには歴史は存在しない。すべての前提、経済体制はもちろん、制度、習慣、技術など数量化しにくい要因はすべて不変と仮定されてしまう。
  • また、モデルには数量化できるもののみが取り入れられるため、公共事業の増減や税率の変更などは考察されるが、制度の改変、規制などは検討されない。

○3「日本に移植された経済学−「高度成長」期の社会と学問」

  • プラグマティズム哲学者パースは、探求(信念確定)の方法を、1.固執の方法(主観的願望への一致)、2.権威の方法(特定の社会集団における権威への一致)、3.先天的方法(人類共通の理性への一致)、4.科学の方法(客観的事実への一致)の四つに分類したが、経済学の探求は、4ではなく1により行われていると言えるのではないかと思われるかもしれない。
  • 職業としての「探求」に携わるものであれば誰しも、個人の心の中で信念を作るのではなく、社会の場で信念を作り上げるにはどうすればよいかと思う。個人の意志の代わりに国家の意志が働くよう仕向けなければならないと考え、そうした公認のイデオロギーを教え込むことを目的とする機関が必要と思うようになる。ここでは異説は封じられ、公認のイデオロギーに反対するものには脅迫が加えられる。こんな権威の方法つまり上記2の方法がアメリカで成し遂げられたと言えるのではないか。そして、アメリカではさらに新古典派は「理性」にもかなうものであり、先天的方法によっても支持されたと言える。
  • 日本への近代経済学の移入は1930年前後からであり、ヨーロッパから、比較的マルクス主義の影響が弱かった東京商科大学の若手研究者によって営まれた。そもそも当時日本でもヨーロッパでも経済学は「制度化」には程遠い状態で、科学とは見られていなかった。社会科学の学会は、日本統計学会(1931年)まで存在しなかった。当時、細々と近代経済学を摂取し始めた異端の経済学者たちは、日本の学問的伝統に従い、ワルラスメンガー、ジェボンズ、マーシャル、そしてケインズ等の古典を翻訳、解読することに精力の大半を注いだ。
  • ようやく1950年前後に近代経済学容認されるようになり、理論経済学会(1949年)、計量経済学会(1950年)が設立された。
  • 当時アメリカの教育法、それは古典の読解(理論そのものの理解)ではなく、宿題と試験の反復(理論を実際に適用する操作法の習得)によるものだったが、これは新鮮な方法としてもてはやされた。
  • 1960年代、高度成長期を迎え、アメリカ留学を終えた学者が制度化された経済学を輸入し、計量経済学の手法を用いた実証的研究が行われるようになり、経済企画庁に経済研究所が付置され、統計資料の整備が行われるようになった。日銀や官庁において近代経済学の手法が業務に取り入れられ始める。政策論としては、まだ乗数理論(公共投資国民所得の関連)の適用どまりで、特定産業の分析まではできなかった。1960年7月に所得倍増計画とともに登場した池田内閣は近代経済学の用語と文法に則した政策論議を流行・定着させた。それは「自由企業と市場機構」を成長力の源泉と認めたうえで政府の財政金融政策が「望ましい方向」への誘導を図る、という新古典派総合の正統的な見地に基づいていた。
  • 近代経済学者の発言がもっとも強い社会的影響力を持ったのは1965年前後であろう。それまではケインズ主義者の政策論は原理的には理解がしやすく、だれでもがケインジアンという状況であったが、価格機構のはたらきを重視する新古典派の考え方が導入されていった。
  • 日本では、エコノミストは企業や官庁において経済分析を担当するが、経済学部ではなく法学部や工学部出身者であることが珍しくない。エコノミストは大学教育を通じてでなく、現場での仕事や海外留学、国内研修により養成されている。
  • 企業や官庁では経済分析が取り入れられたが、研究や教育においては自然科学のような制度化には程遠い状態である。
  • 自然科学は有用性の面でほとんどすべての工業社会を覆いつくすものであった。しかし、社会科学の有用性は、社会的・時代的文脈に大きく依存する。ある地域が工業化されたといっても、伝統や文化的背景までたやすく変容するものではない。また、工業化が経済学の制度化を社会的に要請するわけでもない。

○4「ラディカル経済学運動とは何であったか−70年代の新古典派批判」

  • ラディカル経済学による新古典派批判はきわめてラディカル(根源的)なものであった。その要点は、以下の三点である。
  • トマス・クーンは、『科学革命の構造』において、旧い範型が新しい範型にとってかわられる過程を科学革命と呼んだ。クーンのいう範型とは、「一般に認められた科学的業績であり、一時期の間専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」である。時間の経過とともに範型にそぐわない変則性が多く現れるようになると範型は危機に陥ることとなる。新しい範型に科学者が集団で乗り変わるようになって科学革命が起きる。
  • いったん範型が受け入れられると、その範型が徹底したものであればあるほど科学者の視野は非常に制約されるようになる。
  • ラディカルズの時代は、経済成長に対する不信のようなものが既成の学問を揺るがす基底にあった。現在、はたして経済成長にそれほどネガティブなイメージがつきまとっているだろうか。
  • 公共経済学、不均衡動学、ゲーム論的接近など70年代に展開した経済学の新潮流は、懸案となっている変則性を解消し、失われかけた経済学の現実味を回復するに足るものと映じたかもしれない。しかし一方では、変則性が棚上げされてしまったり、そうしたものはそもそも経済学で扱うべきでないとして知らぬ顔を決め込むという事例も稀でなかった。
  • 科学革命の契機としては科学者集団の価値観の根本的変革がなければならない。その変革は、時代的文脈と社会的文脈の革命的変化が根底になければならない。
  • 日本においては、アメリカよりも活発にラディカルズによる運動が持続的に行われた。日本においてはアメリカほど経済学の制度化が進んでいなかったこと、新古典派の文脈が日本社会の文脈にそれほど適合していなかったことが原因として考えられる。
  • アメリカにおけるラディカルズの主要な矛先は、新古典派イデオロギー性に向いたが、日本では、新古典派の理論が非現実である部分に主として向けられた。
  • 丸山真男は、日本における新古典派理論は、創造の源泉としての精神から生まれたのでなく、既製品として輸入したものであり、その輸入が性急に行われたため、現実からの抽象化作用より抽象化された結果が重視されてしまっている、としている。
  • 日本では、理論と豊穣な現実が同列に並べられ、実感信仰、理論蔑視につながっている。

○5「保守化する経済学−実感派の台頭と80年代の展望」

  • こうして経済学批判が噴出した70年代前半から、実感派エコノミストの発言が力を持つようになる。官庁や銀行のエコノミストたちである。実感派の記述には特に作法のようなものはなく、巧みな文章で経済に関する情報を伝達するのがなりわいである。
  • アメリカではほとんどすべての人文科学が数量化されていっている。クリオメトリックス(数量歴史学)が歴史学の主流にのし上がろうとしている。
  • ラディカルズの運動の支配的潮流に、新古典派総合からケインズを引き離し、ケインズの考え方を中心に改めて経済学を構築しようとするものがある。新古典派と総合されることにより、ケインズの理論的核心部分が修正または放棄されてしまったと考えているのである。しかし、こうした潮流は、合理的期待形成学派により攻撃されることとなった。また、マネタリストからもケインズ派は攻撃されている。サプライサイドエコノミックス(個人のインセンティブを強調し、減税政策を支持する)も力をつけてきており、ケインズ派はかなり疲弊している。
  • こうしたケインズ批判とは異なり、当初から一貫してケインズの経済理論に異論を唱え続けてきたのはフリードリヒ・ハイエクである。
  • ラディカルズは新古典派の方法論的個人主義を批判して社会、経済組織、資本主義などの要素を重視したが、ハイエクは、それらの概念は集団に関する観念のようなものであり、これを事実のように扱っていることがケインズ経済学の錯誤の源泉であるとする。個々人の態度のみが周知の要素であり、それらが構成する全体は観察できないというハイエクの立場からすると、ケインズの「社会は全体として直接理解しうる」という考え方は容認しがたいものであった。ハイエクノーベル経済学賞の記念講演において、ケインズ主義者が全知全能のごとく社会を操舵、制御できるというのは理性の濫用であり、これらは自然に育ってきた文明を破壊させてしまうであろうとしている。
  • ハイエクの考え方を要約すると次のようになる。経済の構造をぜんぶ知り尽くした計画者などいようがなく、管理と計画によって合目的社会を形成しようというのは不可能である。知的謙遜を前提とし、個々人の自由な努力が結合された結果の方が計画のもたらす結果よりも相対的に望ましい。
  • 結局のところ、経済学の歴史を思い切り単純化して眺めれば、それは介入主義と反介入主義の往復に過ぎなかったのではないか。
  • 現在は保守派(合理的期待形成学派、サプライサイド学派)が隆盛を誇っているが、これらは在来の経済学と比べ分析枠組の精巧さや一般性、科学としての洗練度で見劣りがする。とくに合理的期待形成学派は反証不可能な要素が多すぎる。また既存の経済学に、合理的期待という新奇な分析装置を加味したに過ぎないのではないか。サプライサイド学派は個人のインセンティブに重きを置くという心理主義を古典派理論にまとわせたに過ぎない。
  • レーガン政権下、経済学の有用性に対する評価は低落し、経済学の研究費も大幅に削減されようとしている。
  • 社会の価値規範を動かす力を持つのは多くの場合ユートピア主義的社会研究である。制度としての経済学に陰りがさしている今、そうしたユートピア的発想をもとに百花斉放、談論風発という雰囲気の中で展開される筋合いのものかもしれない。

■読後感
橋本治氏が言っていた、日本ではEconomyを節約などの意味ではなく、経国済民として翻訳したのは、まさに経済は国家が計画・関与する事業として考えられていた、ということに結びつく。
この書でもっとも重要な問いかけは、ある社会で受け入れられる理論は、その社会の価値体系、ものの考え方にしっくりくるものであり、真偽が問題なのではないということだろう。佐和隆光は、理論構築の前提があまりにも単純化・理想化しているところを問題とした。しかし、一方で岩井克人は、新古典派のそうした前提から出発してもヴィクセル的不均衡累積過程につながることを論証した。