小谷汪之『歴史の方法について』東京大学出版会、1985年1月
- 作者: 小谷汪之
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1985/01
- メディア: ハードカバー
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◎第一部「思想としての歴史学」
○第一章「「自分史」としての歴史−人は歴史とどのようにかかわるのか−」
- 人にはそれぞれ自分が生きてきた自分自身の歴史がある。この中で、人は客体として運命にさらされたり(戦争など)、主体として歴史にかかわったり(革命など)する。人はある程度まで運命にさらされ、ある程度自己選択を行いながら自分史を作る。
- この自己選択はそのときの価値判断で行われるものであり、時代において支持される価値の変化とともに行動も一貫しない。
- たとえば満州移民は国策により行われ、最終的に8万人の犠牲者を出したが、満州進出を平和の観点からは受け入れがたいとしても、自分史としては肯定したい気持ちになるのではないか。
- 日本においてはヨーロッパ近代の基礎ともなっている自立した個の概念が希薄であった。しかし「自立した個」という概念そのものもある特定の社会状態に特有の表象である。
- 過去の人間を知るということと自分自身のあり方を認識することはどのようにかかわっているのか。
- 歴史は、学者による社会経済史の取り組みのように、当時の社会経済の構造を明らかにしようとする取り組みと、歴史文学のようにその時代における人物を取り上げて生き方を探る取り組みがある。より人の心をとらえるのは後者であり、前者は人間不在といわれたりする。
- 歴史を追体験せよという考え方があるが、しかし、死生観などは、その時代固有の背景に基づいており簡単なことではない。
- 1960年代には民衆思想史、民衆史などが注目されるようになり、色川大吉はそうした取り組みを行ったが、これに対して西川長夫は、民衆の中から運動の担い手だけを取り出して描いており、社会変革に一定の役割を果たしたものだけを描くのはかえってその時代を見失うのではないかという警鐘を鳴らした。
- 歴史とは、人間が作り上げた自然の改造、人と人との諸関係、慣習・伝統・道徳・法・権力機構等という三つの要素から成り立っている。
- 歴史を発展過程ととらえると、過去は現代へ至る中間点というとらえ方しかできなくなってしまう。しかし、それぞれの時代を生きた人々は固有の生きる意味を見いだして支えられていたとき、幸福だったはずだ。それを無理に現代と比較するのはおかしい。
- 今日、中世史研究が盛んであるが、これは中世を発展過程の一部として捉えようというのではなく、一つの異文化として捉え直そうということではないか。
○第一章「ヨーロッパとアジア」
- 所有の概念において、私的所有−自立した個、共同体的所有−個の共同体への埋没、という図式が描かれている。
- ヨーロッパとアジアという二分法は、民主のギリシア、専制のペルシアという古典古代的観念につながるものであるが、これが定着したのは近代である。このねじれた幻影が、アジア的共同体、アジア的専制国家、アジア的生産様式である。
- アジア社会は停滞する社会といった考え方があったが、すでに近代以前の中国において資本主義の萌芽があったことなどが指摘されている。単純な発展段階論は、固有の文化的個性を無視するものである。