クラウス・ヴァーゲンバッハ『カフカのプラハ』水声社、2003年6月

カフカのプラハ

カフカのプラハ

■内容【個人的評価:★★★★−】
○「カフカプラハ

  • カフカはその短い生涯(1883年〜1924年)で、故郷であるプラハを離れることがほとんどなかった。
  • ボヘミア王国の首都プラハは、カフカの頃、フランツ・ヨーゼフ皇帝を君主とするオーストリアハンガリー二重帝国の中でウィーン、ブダペストに次いで第三の都市であり、計23万人が居住していた。
  • かつてはドイツ系住民が主流であったが、チェコ人の大量移入によってチェコ系住民の街といっても過言ではなくなっていた。ドイツ語人口は3万2千人でうち半数以上がユダヤ人であった。カフカユダヤ系としてドイツ語を使って叙述した。
  • プラハは深く分裂した都市で、貴族、軍人、実業家からなるドイツ系上流階級と、チェコ系の下層階級、中流階級が存在した。
  • 友人マックス・ブロートと連絡をとるときは当時導入されたばかりの気送管郵便(1回の利用に日給の20分の1かかった)を好んで利用した。

○「カフカの生涯」

  • フランツ・カフカは商人ヘルマン・カフカとその妻ユーリエの長子として生まれた。父親は、社会的、経済的な成功を重ねていた。
  • 早くから執筆を志し、生計手段も執筆の邪魔にならないものを選ぶことしか考えていなかった。
  • カフェ・サボイで演じられていた田舎芝居に足繁く通っており、カフカの作品もこれに影響を受けている。

○「住居」
○「公務員カフカが通った道」

  • プラハ労働者災害保険局におけるカフカの仕事ぶりは上司から高く評価されていた。局内では誰からも好かれ、敵は一人もいなかった。

○「お気に入りの散歩道」

  • カフカは大変な散歩好きで、街をインディアンのように駆けめぐった。彼は休日や夕暮れ時、あるいは夜間に何時間も歩いた。そして、ほとんどメモや下書きなしで長い間頭の中で準備して、彼はたいてい夜中に一気呵成に書きつけたのである。

○「文学にゆかりのある場所と娯楽施設」

  • カフカは人並みに劇場に通い、講演会に出席した。熱心に映画館通いをする時期もあった。