茂木健一郎『脳と仮想』新潮社、2004年9月

脳と仮想

脳と仮想

■内容【個人的評価:★★★★−】
○序章「サンタクロースは存在するか」

  • 羽田空港で女の子が「サンタクロースがいるかどうか」を話していた。この問いほど重要な問いはないのではないか。人間にとっての仮想の重要性をこの問いは意味している。

○第一章「小林秀雄と心脳問題」

  • 小林秀雄の講演を聴く機会が1999年にあったが、それまでは高名な評論家というイメージを持っていたが、そのときに、語り口が志ん生のようであり、またその文章とは似つかないラフなものであり、親近感を覚えた。
  • そのとき小林が語ったのは、心脳問題、物質である脳に心が宿るのかという問題であった。
  • 小林は、その講演で近代科学について、科学のいう経験が、飽くまでも数量化できるものに限定されていることをいっている。脳におけるクオリア(感覚質)は数量化できない人間の経験である。赤い色の感覚、水の冷たさの感じ、これらはすべてクオリアである。近代科学はこうした心の問題をすべて余計もの扱いした。
  • 広大なグランドキャニオンの前に立とうと、北極のオーロラをみようと、すべての光景は脳内現象としてある。

○第二章「仮想の切実さ」

  • 科学は局所的因果律を対象としている。長期という概念が存在しないのである。
  • 平安時代には、仮想というものが現実に及ぼす作用が信じられていた。
  • 思っていたことと現実が異なる場合、思っていたことは簡単に捨て去られてしまう。
  • たとえばフェルマーの最終定理というものに数学者が300年かけて取り組んでいる。これは真理がそこに存在していると考えてのことである。
  • しかし、人間の認識における「真理」「美」「善きこと」は、現実世界から出発しながらもすべて仮想の世界の要素である。
  • 私たちの精神は、頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と「今、ここ」に限定されない仮想の世界にまたがって存在する。

○第三章「生きること、仮想すること」

  • 愛、平和、すべては必要に迫られて生み出した仮想である。これらは厳しい生存条件の中で生み出された。
  • 生きている限り人間は様々な毒矢を受ける。傷ついた部分は交換可能ではない。傷ついたなりにその状態を引き受けて生きていくしかない。毒矢を抜くことよりも、毒矢はどのようにできているかの解明に専念してきたのが科学である。
  • 仮想によって支えられる魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができる。

○第四章「安全基地としての現実」

  • カントが『純粋理性批判』の中で看破したように、私たちは「もの自体」には決して到達しえない。たとえコップ自体が本当に存在するとしても、私たちが意識の中で把握することのできるのは、その色や触覚や叩いたときの音といったクオリアである。現実とは、クオリアの先にある仮想である。

○第五章「新たな仮想の世界を探求すること」

  • 養老孟司がゲームに熱中していることを聞き、昆虫採取だと良いが、ゲームだとそぐわないという感覚を持つのはなぜだろうか。養老孟司はカルチャーを担っている。しかし、ゲームはサブカルチャーの領域に属するとみなされている。そうしたわかりやすい構図にはまることで対照性が際立つのかもしれないが、そもそも主観的な体験においてはすべては平等である。
  • ゲームをするときにときどき効果音を消してワーグナーの『指輪』をかける。すると、不思議な感慨が湧き起こってくる。
  • 子供のころから繰り返し見る夢がある。銀河の中を巨大な汽車が走っていく夢である。現実ではないのだがなぜかリアリティがある。現実の星空よりも自分の魂に近い何かを感じる。

○第六章「他者という幻想」

  • 他者の心の状態を推しはかる能力というものがある。しかしこれは現実にはきわめて難しいものである。
  • この世界は、お互いに絶対的にのぞきこむことのできない心を持った人と人が行きかう断絶の世界である。世界全体を見渡す神の視点などない。あるのはそれぞれの個人的世界である。この断絶を乗り越えて他者と行きかおうとする中で他者の心という仮想を生みだす。それが人間が生きるということでもある。

○第七章「思い出せない記憶」

  • 中学校や高校の授業の時に、教師がどんなことを言ったのか、卒業後何年か経った時点でほとんど何も覚えていないだろう。しかし、教育の効果として脳には重層的に痕跡として残る。思い出せない過去という巨大な仮想のうえに今、ここの私は生きている。江戸時代や明治時代の人々の生活感情の痕跡が残っていることもありうる。
  • 学生というものは、そもそも、過去よりも未来に興味を持ち、自分で未来を作り出したいと考えるものである。

○第八章「仮想の系譜」
○第九章「魂の問題」

  • 因果法則からなる物質的世界という世界観からみれば、意識の中で様々な仮想が展開されることは奇妙なことであり、それは科学的方法の対象にはならないものとして排斥されてきた。これにたいし、小林秀雄をはじめ多くの心ある人が異議を唱えてきた。

■読後感
毒矢の話は、社会科学と文学の人間に対するアプローチの違いにも比することができる。文学は、一人ひとりがあって全体を見る視点につながるが、社会科学はまず全体を構想する。(望ましい・・・、理想的・・・)
因果律の世界とは別に自らの意識に足をおいた世界、これは自分が学生の時に「夢」や「無意識」、さらには「実存主義」について考えたことと似ている。因果律が満ちているのは当然のことではあるが、ここにおける改善、社会改造といったような取り組みは、けっして人間にとって大きなことではあるが、すべてではない。
美しさ、など人がクオリアで受け止めてきたものには何か生をいきいきとしたものにする力がある。そしてそれは歴史的な人間の感覚の営みのうえに足をおいている。
社会改造も興味深いが、その営みは、たんなる出発点・環境をつくるだけかもしれない。そうした地点よりは、意識を掘り下げて考える方が素敵だ。
どうやら現代の人間よりも、歴史上の普通の人間の方が深い思索を行っていた、ということを考えるにつけ、何か重要なものを見失い、楽になることばかりに力を傾注しているのがわれわれ、という感じがする。インプットだけの毎日では、総合的な力にはなりえないことがわかっているはずなのに。
体験の一回性ということも示唆深い。ある体験で大きい感動を得て、しかしもう一度体験しても同じような感覚を得られないということ。これはたしかにその通りなのだ。だが、音楽を聴くことは何度も感動を得ることができる、といった相違もある。
ゲームを、別の音楽を聴きながらするという体験もまったく自分と同じものである。戦闘機で相手に知られることなく敵国深く潜入し、ミッションを果たすというゲームで、シューベルトの後期ピアノソナタ19番を聴いていたときの不思議な感覚がよみがえる。
この作者は、われわれ同時代人の持っているまさに感覚というか、気分、不安というものを描き出して見せているように思われる。