司馬遼太郎『この国のかたち1』文藝春秋、1990年3月
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1990/03
- メディア: 単行本
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○1「この国のかたち」
- どうして大和政権が古代日本の代表的な勢力となったのか。4、5世紀であっても大和政権は、他の諸勢力に比して比較的大きかったが、絶対的ではなかった。ところが7世紀になると、戦国乱世のような大規模な攻伐があったようには思われないのに統一性の高い国家ができた。この奇現象は、1869年の版籍奉還も同じである。
- 7世紀の面妖さは、5世紀の中国に隋という統一帝国が勃興したことにより説明できる。対外恐怖心が共有されたことが大きい。これは明治維新も同じである。統一国家の芯となったのは「律(刑法)・令(行政方)・格(例外的な法規)・式(細則)」である。四者は相関し法体系をなした。これらは中国から導入した王土王民制(儒教に基礎をおく)である。しかし、制度のうち宦官と科挙は入れず、儒教も学問としては導入したが民間の宗教意識としては導入しなかった。これらを導入していたら日本は中国そのものになっていただろう。
- 6、7世紀に日本に導入された仏教もインドのそれとは異なる。王朝や氏族を守護するものとして導入された。平安初期の天台宗・真言宗もこの点で変わりはない。日本では幸運にも、ついに、ヨーロッパ、中近東、インドあるいは中国のように、人々のすべてが思想化されてしまうという歴史を持たなかった。しかし、思想への憧れは持っており、宗教ではなく書物を通じて摂取しようとした。
- 明治維新の革命思想は極めて貧弱なものである。スローガンは尊王攘夷しかなかった。外圧に対する悲鳴のようなもので、フランス革命のように人類の理想を謳ったものではない。革命の思想や理想というものは遺伝子のようなもので、その後の歴史を規制したり形づけたりする力を持つ。明治維新ではここが貧弱であり、その後敗戦に至るまでの間に近代そのものがやせ衰えてしまった。
- 鎖国が国是としておお暴れして革命したわけだが、それが達せられるとさっさと開国してしまった。
- 人間はよほどでない限り、自分の生国、母校などに自己愛のようなものをもっているが、この土俗的な感情は軽度の場合ユーモアになるが、重度の場合は血生臭く、見苦しい。単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別次元のものである。
- ナショナリズムは、本来、眠らせておくべき性質のものである。わざわざこれに火をつけるのは、よほど高度の政治意図から出る操作であり、歴史はこれに揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。
- ついでながら「尊王攘夷」も輸入思想である。宋(960-1279)では、征服王朝による侵略を受け続け、結局滅んでしまったが、その政権下で夷を打ち払い、漢民族の正当の王を尊ぶべしという思想を生んだ。これは危機時におけるものであり、普遍性を持つものではない。
- 日本の13世紀はすばらしい時代であった。新仏教、彫刻におけるリアリズム、開拓農民の政権(鎌倉幕府)により、律令制下で力を蓄えた公家・寺社勢力と対抗し、田を作るものがその土地を所有する権利を確立した。この素朴なリアリズムをよりどころにする百姓の政権ができて、日本は中国や朝鮮とは似ない歴史を歩み始めた。
- 宋学(尊王攘夷)はイデオロギーであったが、このとりこになったのが後醍醐天皇である。日本の天皇としてではなく、中国の皇帝のようなつもりになり大乱を起こした。
- 宋学は、本場中国にあっては、朱子により大成し、精密化された。朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んじる態度は、官学化されることで弊害を生んだ。日本では、朱子学の空論性が攻撃され、江戸期の思想に好ましい効果を生んだが、一箇所朱子学が沈殿していった土地がある、それが水戸である。幕末、水戸は朱子学的尊王攘夷思想の中心的存在となった。
- 日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかった。ウラジオストックに停泊し、また欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。応急の必要に迫られ、日本は開戦前7〜8年の間に世界有数の大海軍を建設した。
- 本来、大海軍というものは世界各地に植民地を持つような国において必要なものであり、無敵艦隊のスペインはそうした例の代表的なものである。
- 日露戦争後においても日本は世界中に植民地など有していない。大海軍は必要なかったのだ。しかし、一度生まれた組織は、参謀本部という奇胎を背後に増殖を続けた。
- 日本における帝国主義は本当に存在したのか。たしかに日本は韓国併合を行ったが、イギリスにおける帝国主義は、過剰な商品やカネのはけ口であるが、日本ではそんな過剰な商品など存在しなかった。日露戦争の勝利が日本国と日本人の調子をくるわせてしまった。
- 小村寿太郎は、ぎりぎりのところでポーツマスにおける講和を結んだ。日本にはもう戦争を続けるだけの力は残っていなかった。しかし、国内では講和拒否、戦争継続を唱える新聞と大群衆を生んでいた。この狂気こそがその40年後の破滅への出発点であった。
- 満州へは当時無関税で商品を輸出していた。これにより現地の資本は総倒れとなったが、その商品たるや、人絹、砂糖、雑貨のようなものであった。このちゃちな帝国主義のために国家が滅ぶこととなる。一人のヒトラーも出ずに大勢でばかな40年を持った国は他にはない。
- 維新後、尊王攘夷思想は、尊王だけが残り、イデオロギー化した。マルキシズムを含め、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり論断するようになると、幼児のようにあどけなく、残忍になる。
- 後醍醐天皇は、建武の中興において、ごく自然な日本的体制であった鎌倉の武家体制を否定し、中国の皇帝のような専制権を持とうとした。正成はこれに呼応して、河内金剛山のふもと赤坂に城塞を作り、1000名の手兵で幕府軍20万7600騎(太平記)の大軍に抵抗した。北条執権府がいかに無能で弱いかを天下にさらけ出し、赤坂陥落後も、ゲリラ戦や正規戦で幕府軍を大いに苦しめた。
- 尊氏が北朝を立ててからは、焦土作戦を企画した。京都という都市は食糧を生産せず貯蔵もしていない。いったん京都を退いて敵の尊氏を京都に呼び込み、四方を固めて敵を叩こうとした。しかし、帝の側近は帝が京都を退くこの策を受け入れず、聖運でなんとかなるのではないかとした。正成は、わずか500騎で兵庫に下り、湊川で一族とともに討ち死にする。
- 太平記読みは講談の源流であり、とくに江戸期、元禄のころ武士や庶民の間で隆盛を極めた。人気は正成に集中した。昭和になり、朱子の尊王論が国民教育に取り入れられ、楠木正成は思想語に近くなった。
- 明治維新は徹底的な革命だった。諸藩に莫大な金を貸して富裕を誇った金融業は、鴻池を残して一夜でまるはだかになり、全国300万の士族とその家族は失業し、農民は米でなく現金で年貢を払わなくてはならなくなった。
- 江戸時代は幕府も藩も原則として自作農主義であり小作農は少なく、自作農は自給自足を原則としており、現金など持っていなかった。このため現金の入る家業の造り酒屋にたのみこみ、自分の田の所有権を渡し、税金を肩代わりしてもらう約束で小作農になった。革命は、フランス革命やロシア革命と異なり、誰も得をせず、社会全体が手傷を負う形で成立した。
- 島津久光は、この革命の発端となった薩摩藩を率いていたにもかかわらず、こんなドラスティックな形での変革は望まなかった。彼は、新政府(太政官)を憎み、西郷を安禄山であると悪罵した。西郷もこれは堪えたようで、新政府を辞して鹿児島に戻っている。久光は大久保も恨んだ。まさか版籍奉還をするとは考えていなかった。
- 大久保は冷厳な人物であった。儒教的な思弁を好まず、軽兆さがなく、現実主義だった。
- 忠臣蔵はお侍の話である。浅野家の若い殿様が、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。この浅野家の経済力の裏には赤穂の塩があった。これが全国に流通していた。また、日本列島の沿岸を回船が運航し、商品流通を行っていた。
- また江戸の識字率は世界一だったのではないか。文字を習わせるのは、聖賢の書を読むためではなく、農村や町方のこどもが奉公した時に帳付けをできるようにするという、きわめて経済的な動機によるものである。江戸や大坂では劇場が栄えたが、これは貴族の保護によるものでなく、大衆の木戸銭によるものである。
- 商品経済の盛んな世になると、モノの売買、カネの貸借すべて個人が矢面に立つようになる。モノの価値を権力でなく相場が決めるようになり、江戸時代はそうした意味ですでに近代であった。
- ヨーロッパにおける近代精神は、宗教的権威の否定、科学的合理主義と人格の自律性、人間主義の3つが柱であるが、これらはすでにそれぞれ富永仲基、山片播桃、井原西鶴により江戸時代に育成されていた。明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。
- 信長は、部下の門地を問わなかった。秀吉は浮浪児のあがりである。信長好みの気迫はあったが個人的な武芸があったわけではない。
- 信長は、結局人間を道具としてみており、鋭利な方がよく、使い道が多様であるほどいい。秀吉は、早くからこうした信長の性質を見抜き、我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。
- 信長は、秀吉に経理・補給という計数の才、ついで土木の才も見いだした。秀吉は大功を立てると、その果実を惜しげもなく信長に差し出した。
- 信長は、いっさい資料はないけれども、中国の皇帝制のような、中央集権・郡県制を夢見ていたのではないか。
- 本能寺の変にみられるように、日本史は独裁者につよい反発をもった歴史といっていい。
- 大概大概(テゲテゲ)という言葉が薩摩にある。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしない、といった意味である。戊辰戦争の西郷隆盛、日露戦争の大山巌、東郷平八郎といった薩摩人はみなテゲを守った。これは薩摩の風土性というより、日本全体がそのような風である。
- 上の三名は、マスタープランを明示した後は、部署部署を責任者に任せてしまい、自身は精神的な象徴性を保つのに終始する。これに対し、山県有朋(長州)はこまごましたことを部下に指示した。
- テゲであるには、人格に光がなければならない。そうでない人物が首領になると日本人は参ってしまう。
- 日本陸軍では、くだらない人物も大山型を気取り、スタッフに過ぎない参謀に大きな権限を持たせた。これら参謀は専断と横暴のふるまいをした。
- いまの社会を見ると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性、文化
- の均質性、価値意識の単純さが目立つ。国をあげて受験に熱中しているという愚かしさである。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むのに、逆の均一性に走り続けている。
- 江戸期の商品経済が商人や都市近くの農民に合理主義思想をもたらした。
- 三百ある藩において、たしかに礼儀作法、服制、結髪、文章表現などはほぼ一種類であったが、教育や学問は藩ごとに違った。
- 中国人は、とくに個人がいい。中国人はリラックスしているのに、日本人はいつも緊張している。日本人は公意識を持ちすぎている。
- 新興住宅地は丘のうえに造成されることが多いが、もともと日本人は谷に住み、農業を行ってきた。村落や城下町も谷につくられた。
- 様子が変わったのは、横浜開港後からで、外国人たちが高そうな丘に住むようになった。
- 室町までの日本の貴族は呑気なものだった。北条早雲が初めて領民の暮らしを考えるようになった。
- 本来の仏教はじつにすっきりしており、人が死ねば空に帰するという考え方で、釈迦も墓を持たない。他の宗教のような教義もなく、救済の思想もない。
- 解脱こそが理想であり、煩悩の束縛から放たれ、自主的自由を得ることが理想である。
- 一方、日本の宗教改革ともいえる鎌倉時代には、浄土真宗と禅宗が現れた。禅宗は、仏教本来の解脱的性格を備えている。一方、浄土真宗は、仏教よりもキリスト教に近く、救済の性格を持つ。
- 救済の性格は、本来の仏教にはなく、大乗仏教にはじめて現れるものである。
- 親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の根本経典とした。阿弥陀仏をGODに近い唯一的存在ととらえた。親鸞の思想にはいっさい呪術性がなく、これを排除した点はプロテスタンティズムに似ている。念仏はひとのためのものではなく自分のためのものであり、鎌倉時代の個の成立と関係がある。
- 日本においては君主は君臨すれども統治せず、の姿勢を持ち続けた。江戸期に実権を持っていたのは藩主ではなく老中であった。
○24「苗字と姓」