山口昌男『文化と両義性』岩波書店、1975年5月

文化と両義性 (1975年) (哲学叢書)

文化と両義性 (1975年) (哲学叢書)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「古風土記における「文化」と「自然」」

  • われわれは通常、周りを友好的なものと敵対的なものに分割する思考になれており、敵対的な世界に対しては、好ましからざる性質を付託する傾向にあり、こうしたことは人間の意識の展開の最も早い時期から見られる。
  • 風土記においては、文化と自然、秩序と反秩序の対立が例えば天皇が土蜘蛛を討ち取る物語として残されている。

○第二章「昼の思考と夜の思考」

  • 昼は秩序、理性、友愛などの象徴であるが、夜は昼と空無との仲介者であり、呪術、発明、創造などの象徴であり、「結び合わせる」という意味を持っている。
  • 旧約のヨハネと新約のキリストを比較すると、ヨハネの母エリザベスは子供を産む年齢を超えているのに対し、イエスの母マリアは処女であった。また、ヨハネは野獣の皮を着用し、イナゴと蜂蜜で生きていた自然人だが、イエスは大工の子で、市中に住む文化人である。ヨハネは頭をはねられて死ぬが、イエスはローマの征服者たちによって導入された犯罪者に対する処刑法である十字架にかけられて死んでいる。

○第三章「記号と境界」

  • リクールの表現によれば、人間が話し言葉パロール)になり、話し言葉が一定の現実に合わせたディスクールになり、ディスクールが文になる瞬間にそれは語となる。発話というできごとが起こる各瞬間において、語は、記号論と意味論の働く接点であるということになる。
  • ロラン・バルトは、料理の言語体系を論じつつ、「排除の原則」が、料理言語の基礎の成立に働くことを強調している。たとえば西欧人が生魚を除外するのは、生魚が文化の秩序の内側に属していないからである。
  • 古代的意識においても、耕作に適しない湿地や、踏み入る道もないような原始林はけがれたところと見られていた。「異和性」のある地点として散所がある。それは役に立たない所であり、多くは水辺や交通の要衝、村境であった。
  • 境界は、内と外、生と死、文化と自然、定着と移動、農耕と荒廃など多義的なイメージの重なる場であった。
  • 境界は、日常生活の現実には収まり切らないが、人がひそかに培養することを欲する様々のイメージが仮託されてきた。

○第四章「文化と異和性」
○第五章「現実の多次元性」

  • それまで、生活及び生活者の意識が哲学的思惟の対象になることはほとんどなかった。フッサールは、日常生活を生きる人間の主観的意識を通してとらえられた世界が世界が理解されるもっとも根源的な方法であることを強調する。

○第六章「象徴的宇宙と周縁的現実」
○第七章「詩的言語と周縁的現実」

■読後感
人間の文化を言語の構造を踏まえて秩序と反秩序に分けて理解する構造を説き起こしている。