マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中公バックス世界の名著『ウェーバー』1979年8月)
- 作者: 尾高邦雄,ウェーバー,梶山力,大塚久雄,富永健一,厚東洋輔,倉沢進
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1979/08
- メディア: 単行本
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◎第一章「問題の提起」
○1「信仰と社会階層」
- 近代的企業における資本家や企業経営者の特徴として、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているということがある。
- 宗教改革は、生活に対する教会の支配を排除したのではなく、従来とは異なる形式で支配を行うこととなったということである。カトリックは、その支配が呑気で、形式ばかりであったが、プロテスタントは厳粛かつ真摯な規律を要求した。
- プロテスタントの子女には親が高等教育を与える傾向がある。カトリック教徒の日雇職人はいつまでも手工業にとどまろうとするが、プロテスタントは工場に流入して熟練労働者を志向している。
- カトリシズムでは、その信仰が禁欲的であり、現世の財貨に対して無関心で、所得は僅少でも安定的な生活を望む傾向にある。プロテスタントがうまいものを食おうとするのに対し、カトリック教徒は寝て暮らすことを望む。
- キリスト教の信仰におけるもっとも内面的な形態の代表者は商人の間から数多く生まれた。牧師の家庭からしばしば大規模な資本主義的企業家が生まれている。
- ベンジャミン・フランクリンは、「時は貨幣である、信用は貨幣である、貨幣は繁殖力と結実力を持つ、正直と信用」などを説教している。これがすべてではないとしても資本主義の精神、エートスであると言ってよいだろう。
- 「資本主義」は、中国にも、インドにも、バビロンにも、古代にも、中世にも存在した。しかしそれら資本主義には、エートスが欠けていた。
- 資本主義には、労働市場で低廉な代貨を持って雇用しうるような過剰人口の存在が必要である。しかし、そうした予備軍があまり多きにすぎる場合には、資本主義の量的な拡大が促進されることはありうるが、労働を集約的に使用し尽くせるような経営形態への移行はむしろ阻害される。
- 技能的な労働、高価な機械の取り扱い、鋭敏な注意力や創意を必要とする製品の製造に当たっては、低賃金は資本主義の発展の柱となりえない。勤務中はどうすれば楽にできるだけ働かないで普段と同じ賃金を得られるかということを絶えず考えるのではなく、労働が絶対的な自己目的−「職業」すなわち「使命」−であるかのように励むという心情が一般に必要である。こうした心情は、人間に生まれつきのものではなく、賃金の高低から生み出されるのでもなく、長年月の教育の結果として生み出されるものである。
- 今日では資本主義は堅固な基礎があり、労働者の調達は比較的容易であるが、過去の時代には困難な問題だった。
- 14、15世紀のフィレンツェは、当時の資本主義的発達の世界的中心地であり、列強の金融・資本市場であったが、利潤の追求は道徳上危険と考えられていた。一方で18世紀のペンシルヴァニアは大規模な産業的経営がほとんどなく、ややもすれば物々交換に逆転する恐れさえあったが、利潤の追求が道徳上称賛に値すると考えられ、義務たる生活態度の内容と考えられた。
○1「世俗内的禁欲の宗教的諸基盤」
○2「禁欲と資本主義精神」
- プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、こだわりのない所有の享楽に全力を挙げて反対し、消費、ことにしゃし的消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみならず、これを直接神の意思に添うものと考えた。