仲正昌樹『「不自由」論−「何でも自己決定」の限界』ちくま新書、2003年9月

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○プロローグ

  • 「主体性」「自立性」「自己決定」「自己責任」など、人間の自由に関わる基本的な言葉が、日本では宙に浮いたような形で使用されている。日本人はこれらの西欧的な概念に本当の意味で慣れてはいない。日本社会の文脈に適合しきっていない言葉を、本当にはよく分からないまま適当におしゃべりしてしまっている。
  • しかし、西欧における「自由な人間としての主体性」が自然=自発的に生じるという「神話」にもともと無理があったのではないか。現実には極めて限定的・暫定的なものでしかあり得ない「自由な主体性」をすべての人間に普遍的に備わっている共通項のように考えるのは無理がある。
  • 若者に主体性が欠けているのではなく、中年や老人も戸惑っているのだ。

○第一章「「人間は自由だ」という虚構」

  • 現代思想の中心的なテーマの一つが人間中心主義批判ということである。
  • ユダヤ人殺害の責任者、アドルフ・アイヒマンは、1960年に逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの秘密警察モサドに発見され、エルサレムへ連行され、国際法廷にかけられた。それを傍聴したハンナ・アーレントは、アイヒマンが悪の化身のような男ではなく、極めて平凡で個性がない人間であると見た。アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した悪の本質とは、日常的な陳腐さの中で自分が考える能力を喪失していくことである。
  • アーレントは、デカルト−カント以来、近代思想の大前提となってきた「人間性=自由に考える」能力の普遍性、生得性に疑問を感じた。彼女は、アウシュビッツ以降も依然としてそうした人間性を自明の理であるかに見なすヒューマニストに対して警告を発した。
  • アーレントは『人間の条件』の中で、われわれの人間性なるものが古代ギリシアのポリスという極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。アーレントは「人間性」を構成する要因として「労働(自らの生命維持のための活動)」「仕事(自然に対して能動的に働きかけ人為的に新しいものを作り出す)」「活動(言論や説得により他者に働きかける)」の三つを挙げている。このうち「活動」はアテネというポリス中心部のアゴラ(広場)で可能になった、もっとも人間らしい営みである。例えば、学校のホームルームの時間になると急にいい子になって全体のために一生懸命語る生徒がいるものである。人間の生活の動物的な部分を私的領域の闇の中に押し込めることで市民は他の人々の前で人間らしさを演じることができる。アーレントは、こうした「人間性」に現代のわれわれも規定され続けているのだということを言いたかったのだろう。
  • ギリシアのポリスでは、こうした公的領域を有する者=支えられている者はきわめて限定的であった。しかし、現代は、万人が支える者(労働や仕事に従事する)でありながら、公的領域に出て発言するようになった。つまり公/私はギリシア時代は分かれていたが、現代はとても曖昧になったのである。人々は利害を抱えつつ公的領域で発言するため、本来なら家の内部の問題であるはずのことが公的領域で討議されることとなった。実際のところ、現実の政治においても、デフレ対策や不良債権、公共事業への予算配分などの経済ネタに関心が注がれている。市民社会においては、ポリスにとっての共通の善から、経済的利害の調整に関心がシフトしている。人間の数が増えれば増えるほど言論活動を通して現れる「人間らしさ」が薄まっていく。
  • 「同情する人間」観は、ルソーの「幸福なる自然人」のイメージと密接に結びついている。こうした人間との対比で最も非人間的とされるのが上品らしくもったいぶる偽善者、仮面を被った者たちである。しかし、仮面をとり捨ててしまった後に出てきたのは、もともと私的領域にあった暴力衝動である。
  • 現代の日本社会では、本音で生きる自然人を良しとする傾向にある。この背景には自然状態であれば無邪気で他者に対する憐れみを有するという、ルソー的な発想が結びついている。しかし、本音で語ることが人間的という安易な発想は、公的な演技を通して生まれるアーレント的な人間性を後退させ、アイヒマンのような陳腐な人間を作り出すだけである。仮面を被るからこそ人と人の間に多様性が生まれる。
  • アーレントの政治哲学的考察から導くことのできる最大の教訓は、人間性とは、各人に自然に備わっているものではなく、特定の制度の中で人為的に作り出されたものであり、非常に脆いということである。

○第二章「こうして人間は作られた」

  • アーレントは人間性の原点となったポリスの公的領域における活動を、言語的コミュニケーションを媒介とした働きかけとして理解した。言語的活動とはたんなるおしゃべりではない。
  • コミュニケーションとは、もともと立場の異なる他者どうしが、互いに競い合いながら意見交換し、合意=真理に至るプロセスである。言いたいことをいう前に、そこで行われているコミュニケーション・プロセスの最低限のルールやスタイルを学習し、身に付けていなければ何を言っても雑音にしかならない。
  • ルソーは、自然人としての無邪気さを抑圧してしまう、押しつけ的な社会教育制度を批判し、自然な本性を可能な限り生かす理想的な教育の書として『エミール』(1762)を著した。現代日本でもよく耳にする「詰め込みではなく、子供の持っているものを引き出す教育」という、いかにもきれいごとのスローガンの原点はここにある。
  • ルソーの『社会契約論』(1761)は、キリスト教会を通して与えられる神的権威によって王権を根拠づけることが困難になった近代的状況で、国家による主権の正当性を新たに創出するために考え出された理論である。そこで大前提となるのは、各人が自然人として得ている自由を国家による支配と両立させるという命題である。こうした論理を導くためにホッブズやロックが採用したのが自然状態仮説である。
  • ホッブズもロックも、詳細な論理構成こそ異なるが、自然人たちが自発的に自己の自由をどこかに移転することにより主権が生まれると考え、国家の枠内では自然人としての自由は程度の差こそあれ制限されるとした。これに対しルソーは、こうした自由制約論を批判し、自由を譲渡した人間は奴隷となってしまう、奴隷どうしが契約を結んで国家を作ることなどできないとした。そしてルソーは、自由を自分たち自身に譲渡し、全体のことを「一般意志」を通じて考え、法により具体化することを考えた。この一般意志は、個別意志の総和である全体意志とは異なるものである。
  • 現存の法は、おそらくさまざまな利害関係に基づいて作られ、あるいは押し付けられたものであり、一般意志を体現化したものとはいえない文書(エクリチュール)に過ぎない。ところが、こうした法はいったん制定されると、それが全員が異口同音に口にした生きた言葉(パロール)であるかのごとく通用してしまっているとジャック・デリダは考えた。これは分かりやすく言うと、無意識的に他人から聞いたり、本で読んだり、メディアから情報として取り込み、心の中に書き込まれてしまったものが、いつのまにか自分の生きた言葉に化けてしまうような状態である。デリダは、たんに文字や記号のみならず、われわれの思考を規定する制度化された意味の全般を問題にしている。
  • テレビの街頭インタビューで、街の人が「政治家は庶民感覚が分かっていない」などのフレーズをよく使うが、これはニュースとか世間話から仕入れた知識、いわば死んだ言葉を適当に組み合わせて生きた言葉のように見せかけているだけである。そもそも人間の経験は千差万別なので決まった言葉で一義的に表現できるものではない。しかし、当人は制度化された借り物の言語表現を生きた言葉と思い込んでいる。「生きた言葉」や「生きた体験」の内に真理を見いだそうとしてきた西欧人の虚構を、デリダは音声中心主義と呼んでいる。書かれたものが人民の意志の生き生きとした表れであるかのように装うルソーの「一般意志=法」論は、西欧的音声中心主義の典型である。

○第三章「教育の「自由」の不自由」

  • ゆとり教育(1994年)では、詰め込み教育と主体的な学習を二項対立の元におき、詰め込みをやめれば主体性が自然に浮上するかのような前提を置いてしまった。しかし、もともと主体性とは何かという部分がじつは曖昧だったのではないか。

○第四章「「気短な人間」はやめよう」

  • 1990年代までの現代思想の中心点は明らかにフランスにあった。フランスのポスト構造主義思想こそが現代思想であった。しかし、今では明らかにアメリカにシフトしている。
  • アメリカ思想の本流はジョン・ロールズによるリベラリズム思想である。ロールズの掲げたリベラリズムとは、市民の政治・経済活動に対する国家からの干渉を最低限に抑えて自由な行動の余地を最大限に確保しようとする古典的なリベラリズムとは異なり、自由と平等を可能な限り両立させることを目指す。不平等な条件の下での自由競争の条件を制度的に是正して社会的公正を実現しようとするものである。宮台真司氏もこの意味でのリベラリストを名乗っている。
  • ロールズの「公正としての正義」は、公民権運動、フェミニズム、ヴェトナム反戦運動などにより、アメリカの憲法=国家体制を受け入れていない人々が増加したことが明らかとなり、一般意志が成立しているとはいえない状況の下で、自由の下でも平等を実現していくために、仮想の実験装置としての「無知のヴェール」を設け、自分の相対的地位に関する情報を遮断し、自分を一番弱者であると想定したうえで弱者である自分にとって有利な制度を選択するという考え方を導入した。
  • 普遍的な規範に基づいて体系が構築されている法や政治の領域ではロールズ的な正義論は依然として最有力であるが、哲学・倫理学的なレベルでは、ロールズ流の普遍性を主張することははやらなくなっている。生得的な理性を前提とした人間論は、アーレントデリダ以降の現代思想においてはかなり困難になってしまった。
  • 生命倫理において、QOLと呼ばれる問題があり、客観的な情報を与え、自己決定していくという形式を重視する立場があるが、そもそも主体的な決定などできるのかどうか。たとえば医師と患者という関係でいえば、パターナリズムを放棄して自己決定に任せる方が前者にとっては楽である。効率を重視する新自由主義論と自己決定論は親和性がある。
  • 性急な自己決定を迫るという気短さが現代社会にはあある。自己決定からの自由についてこそ考えるべきではないか。