今村仁司『現代思想の系譜学』筑摩書房、1986年7月
- 作者: 今村仁司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1986/08
- メディア: 単行本
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○「現代思想の震央」
- 経済学も『資本論』も分析対象は同じ資本主義経済である。そして両方が使用するテクニカル・ターム、たとえば、商品・貨幣・資本・利潤・利子・地代・蓄積・再生産等は、同じような言葉に見えても、マルクスと「経済学」ではまったく違うのだ。マルクスは、「経済学」の用語を借用してこれらの用語を別の方向へ転用する。
- マルクスが狙ったことは資本主義の支配、資本の権力の生産過程でもある。それは経済のレベルでの政治または権力の理論をつくることでもあった。商品・貨幣・資本という価値形式が徹底した政治の実践であり、支配と暴力の実践であることをとことんまで解明する必要がある。政治・経済学批判は、価値形式の運動と同時に価値体(資本)の支配と暴力、つまり権力の運動をカテゴリー批判を通じて解明する。
- マルクスは、徹底的に貧困化した労働(技術の進展により合理性を増大した労働)をどう処理してどのような社会的組織を展望するかについてははっきりした見通しを与えなかった。
- ドゥルーズ=ガタリのユートピアは、時間的・空間的に遠いかなたにあるものではなく、日常的に実現できる行動である。毎日、たえず権力の一元化から抜け出す生活のスタイルの創造が今・ここのユートピアである。自由とは、制度上の権利である前に非制度的な実践である。
- 技術の速度が社会の速度を決定するのではない。社会生活における生活の速度が技術の速度を決定する。
- 資本主義も欲望装置の一つであり、言語を始めとする文化制度も欲望装置である。すべての制度や体系は欲望によって形成され、維持され、また解体される。欲望の動きにより制度の動きも変わる。いかにして制度やシステムを変えることができるか、これは不変の課題であるが、否定性や批判はかえって制度やシステムを固定化する。制度を変革するものは欲望である。欲望の漂流が制度を変えるのである。
- 教養と百科知識の所有とは異なる。教養人は知識のための知識ということを嫌う。教養人は大部の著作は書かずに短いエッセイを書く。
○「エセーの哲学−ミシェル・セール−」
○「ニーチェの影」
○「記号論の現在」
○「破滅への欲望」
○「思想の晩年様式」
- 思想家の青年期を研究されることはよくあるが、晩年期が研究されることは少ない。晩年は思想のガラクタなのだろうか。そうではなく、晩年だからこそ到達できる何かがある。まったく類似点のない思想家が、晩年になるとある共通点を備えてくることも特徴的である。
○「創発的知性」
- 経済学とは何か、という問いが繰り返されているが、それほど最近の経済学は貧困である。重箱の隅をつついたり、コンピュータと戯れている無知無教養の経済学者たちが日本の経済学をだめにしている。
- 実証研究に没頭しているのは精神の空虚を埋めているのに過ぎない。
- 理論軽視に抗して、一人ひとりが概念的思考を開始すべきときである。
難読ではあるが、自分の課題を語ろうとしていることはわかる。
古典は、きわめて素朴な対象への疑問を一つひとつ説き起こす営みであると考えられるが、制度も古典と同じように、人間の諸問題への対応をしるしづける考えの集大成的な部分である。