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今村仁司『現代思想の系譜学』筑摩書房、1986年7月

現代思想の系譜学

現代思想の系譜学

■内容【個人的評価:★★★−−】
○「現代思想の震央」

○「現代フランス思想の構図」

  • 構造主義の科学的成果は、人間を知るとは「主体」ではなく「構造」ないし「関係」の総体を知ることだ、ということであった。これは近代300年を支配してきた主体の形而上学を揺るがすものであった。
  • フーコーは、『狂気の歴史』から『性の歴史』まで、歴史分析という迂回路をとって、近代の主体性がいかに権力装置と共犯関係にあるかをみごとに描き出した。学校、監獄、病院、軍隊、工場の中で権力と主体性が相互に補完しあう構造を指摘した。主観性は隷属と同一である。

○「脱中心化の思想−ミシェル・フーコー

  • フーコーの書物は、凝縮した文章と緊張した美しい文体により綴られている。駄作がまったくなく、すべてが古典の位置づけを持っている。フーコーは、構造主義以降の思想運動の原型を作り出した。
  • フーコーにとっては、歴史記述こそが哲学的言説そのものであった。彼は、社会化した形而上学ともいうべき具体的制度の分析、たとえば狂気を生産する知の制度や、監獄の中に人間を閉じ込め訓練する知の制度の仕組みを分析した。
  • フーコーは権力論を一変させた。伝統的な権力論は、つねに大権力=国家権力ばかりを扱い、権力の効果をいつも抑圧という相で考えてきた。フーコーは、抑圧的効果以外に権力は生産するという根源的事態を暴いた。

○「ノマディスム−ジル・ドゥルーズ

  • 経済学も『資本論』も分析対象は同じ資本主義経済である。そして両方が使用するテクニカル・ターム、たとえば、商品・貨幣・資本・利潤・利子・地代・蓄積・再生産等は、同じような言葉に見えても、マルクスと「経済学」ではまったく違うのだ。マルクスは、「経済学」の用語を借用してこれらの用語を別の方向へ転用する。
  • マルクスが狙ったことは資本主義の支配、資本の権力の生産過程でもある。それは経済のレベルでの政治または権力の理論をつくることでもあった。商品・貨幣・資本という価値形式が徹底した政治の実践であり、支配と暴力の実践であることをとことんまで解明する必要がある。政治・経済学批判は、価値形式の運動と同時に価値体(資本)の支配と暴力、つまり権力の運動をカテゴリー批判を通じて解明する。
  • マルクスは、徹底的に貧困化した労働(技術の進展により合理性を増大した労働)をどう処理してどのような社会的組織を展望するかについてははっきりした見通しを与えなかった。
  • ドゥルーズ=ガタリユートピアは、時間的・空間的に遠いかなたにあるものではなく、日常的に実現できる行動である。毎日、たえず権力の一元化から抜け出す生活のスタイルの創造が今・ここのユートピアである。自由とは、制度上の権利である前に非制度的な実践である。
  • 技術の速度が社会の速度を決定するのではない。社会生活における生活の速度が技術の速度を決定する。

○「漂流の思想−ジャン・フランソワ・リオタール」

  • 資本主義も欲望装置の一つであり、言語を始めとする文化制度も欲望装置である。すべての制度や体系は欲望によって形成され、維持され、また解体される。欲望の動きにより制度の動きも変わる。いかにして制度やシステムを変えることができるか、これは不変の課題であるが、否定性や批判はかえって制度やシステムを固定化する。制度を変革するものは欲望である。欲望の漂流が制度を変えるのである。

○「快楽の思想−ロラン・バルト−」

  • 快楽が過剰であり限度がないと見る点ではプラトンフーリエは同じである。しかし、プラトンにとって快楽は排斥すべきものであるが、フーリエにとってはもっとも大切なものとなる。フーリエにとって、人間がこれまで貧しかったのは、快楽に引きずられていたからではなく、快楽が少なすぎたからである。フーリエの調和社会論は、つまるところ、快楽の際限のない増進を生産する組織的方法論である。情念引力論はフーリエの思想の基軸である。
  • プラトンが快楽を恐れたのは、快楽と貨幣が結びつくことにあった。しかしフーリエにおいては、貨幣を逆用し、ゲームとして使い、快楽を生む装置としている。快楽は暴力と悪を融解するものでもある。

○「個物の救済−ベンヤミン林達夫−」

  • 教養と百科知識の所有とは異なる。教養人は知識のための知識ということを嫌う。教養人は大部の著作は書かずに短いエッセイを書く。

○「おぞましさの探求−ジュリア・クリステヴァ−」
○「エセーの哲学−ミシェル・セール−」
○「ニーチェの影」

  • これまで人間の思想史は、哲学や科学のような大きい精神活動の本性を理解するために多大な努力を注いできた。しかし現代は、人類文化史上初めて、見る、聴く、話す、読むといった単純な身ぶりの意味を発見しようとしている。マルクスは経済の日常的身ぶりに、フロイトは個人生活のささやかな身ぶりに取り組んだ。

○「テクストと空白」
○「記号論の現在」
○「破滅への欲望」
○「思想の晩年様式」

  • 思想家の青年期を研究されることはよくあるが、晩年期が研究されることは少ない。晩年は思想のガラクタなのだろうか。そうではなく、晩年だからこそ到達できる何かがある。まったく類似点のない思想家が、晩年になるとある共通点を備えてくることも特徴的である。

○「市民社会化する家族」
○「創発的知性」

  • 経済学とは何か、という問いが繰り返されているが、それほど最近の経済学は貧困である。重箱の隅をつついたり、コンピュータと戯れている無知無教養の経済学者たちが日本の経済学をだめにしている。
  • 実証研究に没頭しているのは精神の空虚を埋めているのに過ぎない。
  • 理論軽視に抗して、一人ひとりが概念的思考を開始すべきときである。

■読後感
難読ではあるが、自分の課題を語ろうとしていることはわかる。
古典は、きわめて素朴な対象への疑問を一つひとつ説き起こす営みであると考えられるが、制度も古典と同じように、人間の諸問題への対応をしるしづける考えの集大成的な部分である。