西部邁『ケインズ』岩波書店、1983年4月
- 作者: 西部邁
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/04
- メディア: 文庫
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○第一章「個人史」
- 古書収集が趣味であり、イートン校を卒業するまでには329冊の稀こう本を収集している。
- 文官試験に合格し、インド省に入省する。1年半しか勤務しなかったが、その間に成し遂げたことといえば、一頭の血統正しい牡牛をボンベイへ船積みさせたことであった、といっている。官吏生活は退屈なものだったが、一方でブルームズベリー・クラブという知的な社交の場が彼を生き生きとさせた。
- 失業と並んで現代資本主義のもう一つの疾患であるインフレーションについて関心を持っていた。レーニンが「資本主義制度を破壊する最上の方策は通貨を堕落させることだ」といったことの意味をケインズはよく理解していた。
- サムエルソンは、「ケインズは世間の出来事でいつも忙しすぎ、ある種の基礎的な諸問題を繰り返し考え抜くということができなかった」としているが、世間と付き合うことで基礎的な諸問題を発見しようとしていたともいえる。ケインズは、実生活の経験と適合的な結論を導くことになる現実的な前提であった。
- 1918年、ディアギレフ・バレエ団がロンドンを訪れ、ケインズは、美人バレリーナ、リディア・ロポコーヴァと知り合いになる。財政難でディアギレフが解散した後も、リディアは新しいバレエ団に属してロンドンやパリで踊った。ケインズはそれをみにパリにまで出かけていった。そしてマーシャル夫人にいわせれば「メイナードのしたことで最もいいこと」、リディアとの結婚をする。
- ケインズは、一般に公理・公準あるいは仮定などに前提としておかれていた合意をイデオロギーとして暴露し、代替する解釈を示そうとしていた。
- ケインズは、経済学の取り組みを現代世界に適合するモデルの発見においていた。良いモデルを選ぶために、注意深い観察をする能力が必要であると考えていた。
- 彼は、あらゆる調整の完了した長期における仮想の定常状態ばかりにこだわり続ける経済学者たちに対して、「長期に見ると、われわれはみな死んでしまう。嵐の最中にあって、経済学者たちのいえることが、ただ、嵐が過ぎ去れば波はまた静まるだろうということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である。」と評した。
- 人間の生は根底において非合理性をはらんでおり、理性的には説明できない因習・幻想などを伴っている。この人間は自立した個人としてあるのではなく、不確実性、不均衡性、非合理性に彩られているとケインズは考えた。
- J.ロビンソンは、ケインズ革命について、均衡という考えから歴史という考えへ、合理的選択という考えから推量や慣習に依拠した決定へ、という変化という点にあったと着目している。
- しかしケインズ自身は短期に着目した。その理由は彼がいくぶんなりとも厳密な経済学の論理は短期の次元においてしか成り立たないと考えていたからである。ケインズ・モデルを動学化することがポスト・ケインズの流行となったが、動学的な論理化を禁欲したところに彼の知的誠実がある。
- ケインズの言葉は、政策の現場で生み出されている。
- 自由放任の弊害をとりのぞくにあたり、ケインズはなにほどか集権的な計画にたよるという直接的な途を選んだが、これに対しては、ハイエクは構成主義と呼んで批判した。計画の効率が競争の効率よりも劣るのはすでに実証済みのことである。こうした方法ではなく、迂遠ではあるが、価値、規範あるいは役割などに関する慣習的な制度を諸個人の自由選択を抑圧しない程度に安定化させる方が適切なやり方だったのではないか。
- ケインズは貨幣愛と世襲制を嫌った。
- ケインズは説得という政治のために大衆に入っていったが、大衆という存在が単なるマスでなく、物質的快楽主義と社会的平等主義を信条とする集団であることはよく分かっていなかったようだ。
- 『雇用、利子および貨幣の一般理論』の骨子を一言でいえば、経済学の中に行為論を持ち込んだことにある。それは「人間は、主観的に構成された意味を担って不確実な未来へ向けて行為するものだ」という点を強調する考え方である。
法学は認められても経済学は認められないのは、法学は利害関係者間の「あるべき」論を志向することに関し、それは当然なのに対し、経済行動は、経済的要因のみでは動かない、より人間の全属性による行動であるためである。
経済学の取り組みは、まさにモデル構築のためのそれである。処方せんを示すこともできるが、それは飽くまでも限定的な機能を持ったものにしかなりえない。それは経済活動が人間の全属性による行動だからである。
人間の身体はまさに経済の縮図である。たとえばある部分を良化することで全体が死に至るような対策はするべきでない。
経済学的視点で理想とすべきは「どんな状態か」であって「どんな形か」ではない。たとえば街づくりであるとか教育であるとかは、経済学の少なくとも直接的な対象ではない。
さきに河野衆院議長が引退にあたりやや自嘲的に今までに何をなしたかといえば、それは当初思い描いていたものに対して何ほどのものでもない、と言っていたが、それはいつわらざる本音だったろう。それはこの人のみでなくほとんどすべての人について当てはまることなのだ。最期に臨み、充足感に満たされて、ということを望むのはまっとうなことのように見えて実は無理なことなのである。
経済は短期の処方せんを書く。インフレと失業という二つの困難を避け、そこに陥ったときは、政府として対応する。そのうちに、街づくりや教育に取り組むということであろう。あくまでも短期で安定化のための、という前提に立つと、基本的に産業の振興などの問題は、雇用創出効果など経済的なことに見えて、じつはそうでもない、言葉を変えていうと、経済理論をよく適用すべき分野とはちょっと違うのではと考えられる。
現在の政府による支出増加による景気回復は、昔ながらのものに過ぎない。それをおこなっても高が知れている。そうではなく、もう生産を以前のようにしなくても良い時代になったのだということ、時間を得て収入を下げるべきなのだということ、これしかささやかで安定した社会をつくるための道筋はないと思われる。そのためにすべきはワークシェアしかないだろう。これを活力を保ちつつ行うこと、ここに尽きる。ケインズ主義=政府中心主義のような図式が描かれることがあるが、これは間違いだ。市場主義を飽くまでも補完するものとしてしか政府の存在は認められていないのに対局的なもののように描いてしまっている。政府の役割は飽くまでも「短期」なのだ。