富岡幸一郎『スピリチュアルの冒険』講談社現代新書、2007年7月

スピリチュアルの冒険 (講談社現代新書)

スピリチュアルの冒険 (講談社現代新書)

■内容【個人的評価:★−−−−】
○はじめに

  • 現代人の精神の飢餓を満たすには、宗教ではなく、人間の内面を掘り下げていくほかないのではないか。
  • 先人のスピリチュアリストの霊的メッセージに耳を傾けることとしたい。

○第一章「生命としての霊性」

  • 西洋の思想には、ヘブライの思想、すなわち移動するユダヤ人の思想と、プラトンなどにみられるギリシャの思想に大きく分けられる。ヘブライ思想は霊と肉を同一のものとしてとらえるが、ギリシャ思想は霊は永遠だが肉は滅びるととらえ、魂を大切にして深い知恵と真理を知るべきであるとした。
  • もともとキリスト教ユダヤ人の伝統思想から生まれたものだが、かなり早い段階でプラトン的なギリシャ思想に強い影響を受けた。
  • 日本でも精霊信仰がある。柳田国男は、布川の小さな祠で大きな蝋石を見たとき、昼間であるのに星が一面に見えた、という体験をしている。
  • 小林秀雄はこの話に感動し、こういう感受性が民俗学につながったのではないかと考えた。
  • 一神教では聖霊、日本の神道のような多神教ではたくさんの精霊が宿る。
  • ドストエフスキーは、『悪霊』の中で、祖国に広がりつつあった無神論的な革命思想こそ現代の悪霊であるという考え方を展開している。

○第二章「日本のスピリチュアリスト」

  • 内村鑑三は、近代人が、自己の意識や理性を至上のものとしてふるまう、自己実現の欲求の強さを嫌った。「近代人は自己中心の人である、自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である。近代人とはシルクハットをいただき、フロックコートを着け、哲学と芸術と社会進歩とを説く原始的野蛮人と見て多く間違はないのである。」
  • 鈴木大拙は、「日本民族の霊性生活史というべきものが書かれるなら、鎌倉時代にその中心をおくべきである」としている。大拙は、留学先のアメリカでスウェーデンボルグの神学に出会い、惹かれるようになる。大拙は、日本の歴史を振り返り、仏教の文化は建築や芸術という形で早くから定着したが、奈良・平安期を経て鎌倉期に至り、禅と浄土思想により、仏教の心的側面、日本人の魂の深い次元において霊的体験として意識されるようになるようになった。大拙は精神と霊性を分け、霊性は、世界そのものをそのまま感じ取る力であるとしている。
  • 同窓の西田幾太郎は、主体と客体が分けられる以前に直に感じるものを「純粋経験」「純粋意識」と呼んだが、これは大拙の日本的霊性に近いと考えられる。

○第三章「文学の中の霊性」

○第四章「二十世紀の神学と霊的闘争」

  • スピリチュアリティとは、目に見える価値や成果だけにとらわれずに、自己を超えたもの、社会の水平的な軸を超えた超越的なるものを感じる力を意味する。そのとき、他者の苦しみや悲しみに対する、この世界の困難や不条理に対する深い関心が生まれる。

■読後感
スピリチュアルが、観念でなく生きる力のようなものであるイメージは持つことができた。
霊的なもの、あるいはキュブラー・ロスの繭から生まれる蝶のようなものは、亀を追いかけるアルキメデスのような永遠が隠されているのではないか。