廣松渉『生態史観と唯物史観』ユニテ、1986年7月
- 作者: 広松渉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1991/07
- メディア: 文庫
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◎第一部「生態史観と唯物史観」
○第一章「梅棹生態史観の問題提起」
- マルクス・エンゲルスは、歴史を人間的主体と自然的環境の生態系的な相互規定態を考えていたことは『ドイツ・イデオロギー』をみても明らかである。
○第四章「歴史認識の関心と方法論」
- 唯物史観と生態史観は、いわゆる個性記述主義流の史観とは異なる。非日常的事件に幻惑される歴史とは立場が異なる。
○第一章「生産物交換の広○」
- 縄文式土器は、原始的な素焼きの土器であり、集落の中で自給されていたものと考えられがちであるが、使い捨てされていたものではなく、他給依存的な物品であった。
○付論「生態学的価値と社会変革の理念」
- 近代における共産主義の運動は、思想上近代市民革命の理念を継承する路線として、自立的で自由な諸個人、平等な人格相互の、友愛的な結合、これが理想的な社会像として表象されていた。
自身の唯物史観にどう生態史観を接合しようかという思索的な営み。
引用が多すぎて主張が隠れてしまっていたり、忠実すぎて目的から外れてしまっていたり、本質でなく言葉じりへの批判になってしまっている。また、現実はまったくさておき、論説に終始してしまっている。昔こうした著作の作り方があったなあという感じ。最後に、この著作にはやり切れていない部分がある云々があるが、これはひどい言い訳。それであれば著作として出さない方が良い。
マルクスのアジア的生産様式の考え方を現実に当てはめることに躍起になりすぎている。また、交換について生産力の向上から余剰物の交換へという慣れ親しんだ公式が出てくる。これ自体、今ではあまり心に届かない。そんなことを論理的に説明してどうなるのか。歴史研究においては、当時の人々の文化や習俗も合わせ考える、全体史としての記述をこころがけるべきなのではないか。
数量経済史の手法は本質的には人を変わらない側面からとらえ、その時々の社会的状況を踏まえ人間行動を考える。一方、唯物史観には人間は進化するものだという前提がある。このため、前史時代は低めに(アジア的生産様式)、そして将来については高めに(計画経済)バイアスがかかってしまう傾向にある。そして後者はすべてについて論理でまとめるため、歴史はつじつまのあわない=一回限りで繰り返さない、ものであるにもかかわらず、それをきれいな弁証法の論理体系にまとめあげてしまうという無理がある。論理体系=唯物史観を構築する中で捨象してしまっているものこそ、重要な人間の本質なのである。
人間の理性は過信すべきではない。また、ここの人間は長期の視野も持ちにくいものだ。しかし、だからといって悲観して教養の営みまで捨て去ってしまうのもいけない。(ただし、その営みは、えてして自らの先入観を補強するためのものになる場合もあるから用心が必要である。)