橋本哲哉『近代石川県地域の研究』金沢大学経済学部、1986年3月
■内容【個人的評価:(対象外)】
○第一章「工場制工業の展開」
- 本章では、日本資本主義確立期、すなわち日清戦争期から日露戦後期を対象として、石川県地域に機械制生産がどのように定着していったのかをみることとする。
- 石川県地域では、統計をみると、ほぼ1913年前後の時期に、絹織物業を主導的業種として機械制工場生産が確立されたといって良い。
- 石川県地域では絹織物の羽二重生産が特徴的であるが、その力織機の原動機は1906年までは水力と蒸気が中心であったが、1910年にかけてガス・石油発動機、電動機に移行し、1913年には電動機以降が完了している。
- 工場の規模は大規模経営へのシフトもみられるが、基本的には小規模経営であった。
- 輸出羽二重が当初は中心であったが、大正期にはその比率は漸次減少し国内用の絹織物が急速に増加する。
- 山田盛太郎などはこの時期に過酷な賃労働があったとしているが、まだ実証はされていない。
- 金沢については、地方中核都市、中枢管理都市といった形容がされることがあるが、現状としてはヒンターランド規模が貧弱であり、地方の中心都市といい他方が的確である。
- 他の比較的性格を同じくする都市(広島、仙台)とくらべ人口の伸びがはかばかしくない。
- 近世都市研究においては、都市の自治・行政機能に着目したものがある。松本四郎『日本近世都市論』では、幕藩制のもとでの都市と農村の関係に関心を持ち、農村で土地を失った農民はどこへ行くのか、などの設問を検討している。その解答の一例として農村−在町−城下町という人的な流れを提出している。
- 城下町は、本町、地子町、寺社門前町、相対請地からなる。町人は、本町、地子町に集中した。相対請地とは、農民の土地を町人に貸したものである。ここは没落農民のふきだまりにもなった。職業でみると日雇が半数、下級武士、大工・鍛冶・笠縫などであった。
- 金沢は職人の町でもあり、一般消費財のほか、金箔や陶工、そして武士の甲冑などを作る職人もあった。
- 明治維新を迎え、とりわけ下級武士は没落した。
- 米騒動の主体が金箔労働者であったことは聴きとり資料により明確である。地方下層社会には固有の連帯感があったものと推察される。
- 件数としては決して多くなかったが、都市型、米移出反対型、農村部型として展開した。
- 尾小屋では、銅生産が日本有数の生産量であったが、後に衰退し、鉱山の廃山も行われる中、労働争議が行われた。横山家は士族商法の数少ない成功者であった。
- 日本の社会の単位としての地域社会の問題に即して歴史を検討して行くのが地方史だと解すべきであろう。
- 資本主義化する中で再編されてはいるが形骸化しつつ生き残っているもの、民衆生活レベルで受け継がれているもの、意図的に残されたもの、政策的に消されたものに注目すべきであろう。