西部邁『大衆への反逆』文藝春秋、1983年7月

大衆への反逆 (1983年)

大衆への反逆 (1983年)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○1「状況」

  • 庶民の態度は、他国に類をみないような率で幸福と平等を成長させたということについて、小さくない優越を感じている。一方で、幸福と平等の過剰によりある種の精神的凡庸と文化的頽落がもたらされているのではないかという不安が膨らんでもいる。
  • 自由と民主主義の間には大きな緊張がある。田中角栄は、民主主義の側に決定的に重しを置いた。それは良くも悪くも少数者を排斥する制度であり、多数者の専制を許す制度である。
  • 民衆の主権とは、支配するものと支配されるものが同一であるという前提に立っている。ルソーのいう一般意思が多数者と少数者を貫いているのでなければ、多数決は多数者の個別意志を全体意志として偽装するだけである。
  • 一般意志の形成・確認を目指すのが自由主義の思想である。それは言論の自由という形で少数者の権利を確保し、相互理解に道を開くものである。また自由は自己破壊の道をすら切り開く。
  • オルテガは、選ばれた少数者は、「高度の要求を自分に課し、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険を絶えず感じ、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力し、その努力のうちに英知が宿る」ものである。
  • ガルブレイスは、物質的な豊かさが満たされて初めて精神的な豊かさを求めるとしたが、物と言葉を剥離させて時間的順序に並べるのには同意できない。最近では衣食足りて礼節を忘れるの感がある。
  • 現代はさまざまな古いものが流出してしまっている。過剰な新奇さを求めている。
  • 大衆とは資産を持たない人でもなく指導される人々のことでもない。懐疑を失った人である。
  • オルテガは、ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明の救済は事実上不可能であるとした。

○2「知識人」

  • オルテガがいわんとするのは、孤独もしくは絶望という生の根本形式から出発しない限り、自我の純正な基盤は得られないし、それが得られなければ真正な文化もつくられないのだということである。オルテガが十九世紀を批判するときの主要な相手は理性偏重の思想である。理性主義のせいで生の方向を喪失しまっている。
  • ヒューム、バーク、トックヴィル、ミル、ハイエクへと続く自由主義の哲学は、自由の重要さと限界をよくわかっている。それは保守的懐疑に裏付けられた自由を守ろうとする。人間の知的、道徳的限界をわきまえ、それゆえ歴史的に積み上げられた慣習に基づくのが保守である。
  • 経済学の良心はハイエクによって守られている。社会哲学、経済理論に恐ろしいまでの論理的一貫性がある。

○3「体験」

  • 200年近く加速度的な経済成長を行ってきたのだから、50年くらい経済成長を止めてはどうか。経済成長の鈍化は失業を招く。失業は本人にとっては大変なことだが、社会にとって必要悪であるという可能性について論議すべきではないか。失業により職業の意味、秩序、信頼、意欲、忍耐などを教えてくれるのではないか。家庭やコミュニティの意味、私有財産が生活や思想を安定化させることなども教えてもらえるだろう。無理な有効需要創出政策は、効率の悪い企業を温存させてしまう。失業は、ハイエクのいうように真正な選好を効率的に実現する生みの苦しみである。
  • 失業者に対しては、福祉でなく、市場以外の雇用機会を与えてはどうか。それは汚染された自然や破壊された田園を復興する仕事である。これが難しいとすれば失業は放置するほかないだろう。
  • 学問が自分を幸せにしてくれることは確かである。良い形に出来上がった論理に仕え、それに自己を合わせてしまうのは人間にのみ許されたことである。

○4「書籍」

○5「文明」

  • 今までの日本人論は、焦点が個人主義集団主義にあった。
  • 日本の文化型は相互的個人主義と開放的集団主義である。これは、民主主義と産業主義にきわめて好都合なものであり、大衆社会化につながった。
  • 保守主義が未来を創造することにおいて極力慎重だったのに対し、ケインズ主義と新自由主義は、計画者の自由と個人の自由という差こそあれ極力大胆に未来を描こうとしている。