平井俊顕『ケインズ 100の名言』東洋経済新報社、2007年7月

ケインズ100の名言

ケインズ100の名言

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「新しい時代・新しい経済学」

  • 経済分析のために自らのモデルを使用するに際して、ケインズは『一般理論』で、考察されていることは現実の世界を単純化したものに過ぎないこと、もし現実世界がより正確に描かれるべきとすれば、それは相互作用的・叙述的方法によってのみ可能なのであって、数学的技法の持つ能力をはるかに超えたものであること、を繰り返し述べている。(「著者はもったいぶった、役に立たない記号の迷宮の中で、ともすれば現実世界の錯綜関係と相互依存関係を見失ってしまうのである。」)
  • 重商主義者は、彼らの分析を問題解決の点にまで推し進めることはできなかったが、問題の存在を知っていた。しかし、古典派は、彼らの前提の中に問題の存在を否定する諸条件を導入したために、問題を無視し、経済理論の結論と常識の結論との間に分裂をきたす結果となった。
  • もし大蔵省が古いつぼに銀行券を詰め、それを廃炭坑の適当な深さのところへ埋め、次に都会のごみで表面まで一杯にしておき、幾多の試練を経た自由放任の原理に基づいて民間企業にその銀行券を再び掘り出させる・・・ことにすれば、もはや失業の存在する必要はなくなり・・・
  • 経済学は論理学の一分野であり、思考の一方法です。・・・経済学は本質的にモラル・サイエンスであって自然科学ではありません。
  • 経済学はモデルの改善によって進歩するが、可変的な関数に実際の数値を当てはめるべきではない。統計的研究の目的は、モデルの妥当性・有効性をテストすることにある。
  • モラル・サイエンスは、内省と価値判断を用い、動機、期待、心理的不確実性を扱う科学と定義されている。今日の新しい古典派のもつ形式主義とは真っ向から対立する立場である。

○第二章「よりよい社会を目指して」

  • 資本主義は、道徳性の観点からは否認されるべきである(貨幣愛を原動力としている)が、効率性の観点からは少なくとも当分のあいだは是認されざるを得ない。
  • 遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ、危険なものは既得権益ではなく思想である。(独裁主義、自由放任思想、金本位制
  • 政府機能の拡張は、19世紀の評論家や現代のアメリカの銀行家にとっては個人主義に対する恐るべき侵害のように見えるかもしれないが、私は逆に、それは現在の経済様式の全面的崩壊を回避する唯一の実行可能な手段であると同時に、個人の創意を効果的に機能させる条件である、として擁護したい。
  • 資本が社会に蓄積されていくにつれて、資本の希少性は失われていく。・・・その結果利子率は極度に低くなる。これが利子生活者階級や資本家階級の安楽死をもたらす。

○第三章「「偉大な精神」へのまなざし」

  • マルサスは、深遠な経済的直感と、移り変わる経験の形像に対して偏見のない心を保ちつつ、しかも絶えず、その解釈に形式的思考の原理を適用するという、類まれな資質の組み合わせの持ち主であった。
  • ニュートンは、最後の魔術師であり、最後のバビロニア人、そしてシュメール人であり、一万年ほどの昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。

○第四章「論敵・友人に囲まれて」

  • シュムペーターの経済理論、社会理論のいずれにあっても、企業者の役割が強調される。一方で労働者階級はまったく登場してこない、というのがシュムペーター理論の最大の特徴である。これは一種の歴史主義であったといえよう。
  • ハロッド=ドーマー理論は、ケインズの理論を長期的かつ動学的なものにするという試みであり、ケインズはハロッドを高く評価していた。

○第五章「一人の人間として」

  • われわれは最後のユートピアン、あるいは往々にして世界改善論者(meliorist)に属していた。この者達は、道徳的進歩の継続と、そのおかげで人類は、信頼に足り合理的で礼儀正しい人々からすでに成り立っていると信じている。しかもそういう人々は、真理と客観的基準に影響されるために、因襲、伝統的基準、融通のきかぬ行動のルールといった外面的拘束から完全に解放されており、今後は自分たちの作った気の利いた仕組みや、純粋な動機や、信頼にするに足る善の直観などに自らを委ねることのできる人々だと信じているのである。
  • 人性合理性に対しての懐疑が次第に深まるにつれて、規則や慣習の重要性にケインズは目覚めていくこととなる。