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スーザン・B・ハンレー『江戸時代の遺産』中央公論社、1990年4月

江戸時代の遺産―庶民の生活文化 (中公叢書)

江戸時代の遺産―庶民の生活文化 (中公叢書)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○序

  • 本書は、17世紀初めの徳川幕府成立から20世紀初めの近代化・工業化の初期段階に至る日本人の生活のあり方を個々の人間のレベルから研究することを意図した。その際、物質文化、健康・食物・公衆衛生の水準、身体の分析を行う。

○第一章「富の増加と生活水準の向上」

  • 徳川幕府の成立及び社会的、経済的、さらには人口学的な展開という点で、それと関連するすべての事柄は、明治維新と同様に重要であったといえるだろう。
  • 17世紀の間にほとんどすべての面で生活が変わった。初めて庶民が恒久的な家屋に住み始めた。木綿が徐々に衣料として好まれるようになってきた。サツマイモの栽培により凶作時の飢饉の恐れが減った。奉公人が小作人となり、結婚もし、家族を持つようになり、人口が急増した。商業が栄え、都市が建設され、都市の職人や商人による文化が育ってきた。
  • 江戸時代の生活が戦国時代とは異なるとはいえ、新しい生活様式の起源の多くは15・16世紀にあった。これらは室町幕府のエリートによる物質文化に起源を持つものもあれば、戦国大名によって戦争の遂行のために発展せられた技術・発明・装備に起源を持つものもあった。
  • 江戸時代を、二世紀半もの間一枚岩のような時代が続いたと考える傾向があるが、それは同一の政権が存続したことや、17世紀に整備された社会的・経済的制度の主なものが19世紀にも存続していたことに理由がある。経済史家は、17世紀の経済・人口の両面の成長と、それに続く1世紀半の経済・人口の停滞に分けて考える。
  • しかし江戸時代後半も実際は物質文化は裕福になり続けていた。第一に住居の改善と、一家族あたり人数の減少がある。

○第二章「資源を有効利用する文化」

  • 日本では、椅子やベッドのような家具はなく、非常にシンプルである。生け花はブーケに比べてまばらである。また、暖房でも、部屋を温める(ストーブ)のではなく身体を温める(こたつ)。

○第三章「質素でも健康的な生活」

  • カロリー摂取量の数値は、今の水準からすれば極めて低いように見えるが、当時の人々の体格ではおそらく十分であったろう。1980年代に、しかも世界でも有数の過食の国民であるアメリカ合衆国でさえ、一日のカロリー量として進められているのは成人女性で1800から2000、高齢者で1500程度である。
  • ヨーロッパ人も、カロリー、栄養ともに穀物への依存がはなはだしく、19世紀末のイギリスでさえ、普通の労働者は、よほどのことがあったり、家長でもなければ、肉はほとんど食べていなかった。

○第四章「都市の公衆衛生の発達」

  • 近代以前の都市の多くでは、出生率が死亡率よりも低く、人口は常に流れ込んでくる移入民によってのみ維持できたのである。ところが日本では、ある一地区で都市人口が下がり放しであっても、近隣の都市や町では人口が増え、それを補っていた。
  • 高山では人口増は移入民に依存していたが、死亡率は周辺の農村部と同程度であった。江戸時代には、高死亡率が原因で都市人口が減少したとは考えられないのである。
  • 日本の給水が良質なのは、地理的条件に恵まれていたせいだけではない。むしろ、水源としての川を汚してしまうことになるような、川への糞尿の放流を人々がしないことにあるのだ。
  • 日本の諸都市から出た屎尿は、西洋諸国とは比べものにならないほど、広範囲に肥料として長い間使われてきた。日本の人口が増えるとともに耕地の量に限界がみられたことや、人々を養うのに土地の集約的利用がますます進んだことから、動物の排せつ物など他の肥料が比較的乏しかったことも相まって、西洋よりもはるかに、人間の排せつ物が肥料としての価値をもっていたのである。

○第五章「近代化する家族構成」

  • 明治時代には大家族であったことを示す史料がかなりたくさんあるので、江戸時代も同様に出生率は高かったと考えられることが多い。結果的には明治維新後半世紀の間に60%もの人口増加をみた。

○第六章「江戸時代から明治へ」

  • 江戸時代から明治へ変わり、人々の生活様式はどのように変化したのか。物質文化の主な三つの要素、住宅・食物・衣服の分析を行いたい。
  • 住宅でいえば、中・下級武士の住宅のパターンが、明治時代以降、その数が増え続けていた給与の形で報酬をもらう労働者によって受け入れられた。
  • 肉食という新しい習慣や、明治期に開店した新しいレストランが注目を集めたにもかかわらず、たいていの日本人の食事は江戸時代とほとんど変わっていなかった。
  • 軍司令官も兵士が白米を食べると脚気となりやすいことに気づきだした。そこで日清戦争の時にはビスケットが導入され、日露戦争後には大量生産された。また、軍隊は牛肉をも取り入れ、地方出身の兵士の赤い肉に対する苦手意識を克服するため、それを大和煮と呼んだ。兵役を終えると、地方の青年は新しい食べ物の味と料理法を覚えて故郷へと戻った。これが何よりも、普通の人々の食習慣を変えていく原因となった。一般の人々の食事が大きく変わってきたのは大正時代であった。日本人が主要なメニューの一つとしてカレーライスを食べだすのもこのころである。
  • 明治時代は、食事の西洋化というより、より画一的な和食が全国的に広まったのであった。
  • 衣服についても、大部分の服装は基本的には変わらなかった。
  • 人々は、以前とほぼ同じような生活を続けていたため、貯蓄率や投資率が高くなり、国産であれ舶来であれ、消費財の購入に向けられた収入はわずかであった。
  • ライフスタイルがこれまで通りであったので、消費パターンはそのままであった。生活水準が向上することで、全体的には昔ながらの品物への需要が大きく伸びたのである。このことは経済の安定に役立った。つまり、伝統的な製品をつくっていた人々が、突然仕事をなくしたり、その技術が時代遅れのものになってしまうことはなかった。

○第七章「十九世紀の日本と西洋」

  • 私たちが得た十九世紀の日本の物質文化や身体の健康状態についての史料を元にして考えると、当時の人々が、平均して、同時代の西洋諸国に比べて劣ったライフスタイルで暮らしていたと論じるのは難しい。
  • 明治維新の時点で日本人が遅れていたとはもはや考えるべきではない。日本に唯一欠けていたのは、工業技術であって、日本の指導者たちは即座にこの欠落の修正に着手した。
  • 時代をさかのぼるほど、日本人と西洋人はどんどん似てくるように思われる。とくに、中世の物質文化に関してそう感じる。しかし、双方の文化が発達してゆくに従って、物質文化は西洋と日本とで非常に違った方向へと進んだ。ヨーロッパ人は、床から離したベッドはいうまでもなく、椅子とソファを発達させた。一方、日本人は畳を発達させた。
  • 本書は、近代以前の準備が日本の近代化の成功とその速さに決定的な役割を果たしたという議論に、別の広がりを付け加えるものである。日本での肉体的な健康状態の水準は、西洋で最も進んだ工業国家であるイギリスに比肩しうるものであった。また、識字率、健康的な住宅、適切な食事、寿命といったことにおいても、日本人は西洋人と同水準にあった。
  • 日本の工業化という「経済的奇跡」は、従来考えられてきたような近代の奇跡といったものでは決してない、ということになる。