読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

新渡戸稲造『武士道』教文館、2000年1月

武士道

武士道

■内容【個人的評価:★★★★★】
○序文(第一版)

  • 私が子どものころに受けた道徳教育は、学校で教わったのではない。私の正邪善悪の観念を成しているいろんな要素を分析するに至って、はじめて、それらの道徳観念を私に吹き込んだのは武士道だったと気がついた。

○第一章「倫理体系としての武士道」

  • 武士道は、武士が守るよう求められ、また教えられた道徳法則の掟である。武士道は文字で記された掟ではない。武士道には、マグナ・カルタや人身保護令に相当するものは何一つなかった。17世紀初めに武家諸法度が発布されたが、その簡単な十三条は、おおかた、縁組、城郭、徒党などに関するもので、教訓的規定に触れるところは少なかった。
  • トム・ブラウンが、「小さい子を決していじめず、大きな子に背を向けなかったやつという名を後に残したい」といった少年らしい願望をきいて私たちはニンマリする。しかし、この願いこそ、壮大な規模の道徳的建築がその上に立てられる隅の親石であることを、誰が知らないだろうか。トムの願望こそ、イギリスの偉大がおおかたその上に建てられた基礎である。

○第二章「武士道の源流」

  • 厳密な倫理の教えについては、孔子の教えが武士道の最も滋養に富む源流だった。孔子の人倫五常の道の論述−主従、父子、夫婦、長幼、朋友は、孔子の著作が中国に導入される前から、民族本能がすでに確認していたことの追認に過ぎなかった。
  • 孔子孟子の著作が、青年の主な教科書となり、年長者の間にあってはその論議の最高権威となった。しかしながらこの両聖賢の古典をただ知っているだけでは、何ら高い尊敬は得られなかった。孔子をただ知識として知っているだけの人を、諺は「論語よみの論語しらず」とあざける。言わんとするところは、知識が本当に知識となるのは、それが学ぶ人の心の中に同化され、その人の性格に現れたときだけだ、とのことである。知的専門家は機械とみられた。知性自体、道徳感情に従属すると考えられた。
  • 武士道は知識そのものは軽視した。知識は目的そのものとして追求されず、知恵に至る手段として求められた。それゆえ、この目的に至ることのできない人は、たかだか便利な機械とみなされ、求めに応じて歌をよんだり、格言を口に出したりできるだけの者とされた。このソクラテス的な教えの最大の唱導者は、中国の儒者王陽明であった。彼は知行合一をくりかえして、うむところがなかった。

○第三章「廉直すなわち義」

  • サムライにとって何が忌まわしいといって、後ろ暗い行動や、曲がった企て以上のものはない。
  • 封建制の後期においてさえ、当時は平和が永らくつづいて、武士階級の生活に余暇をもたらし、それとともに、あらゆる種類の気晴らし、技芸のたしなみが生じたが、その時でさえ、義士という称号は、学問や芸術の熟達を意味するどのような名称よりも優れたものと考えられた。
  • 義理とは、人為的社会の諸条件の産物だと私は思う、すなわち、その社会にあっては、生まれや分不相応の恩顧が階級的差別をつくりあげ、家族が唯一の社会的単位であり、年長が才能の優秀以上に評価され、自然の情愛はしばしば気まぐれな人為的習慣に屈服せねばならなかった。まさにこの人為性の故に、義理は、やがて堕落して、あれこれのことを説明したり是認したりするために呼び出される、漠然とした適正感となった。
  • 私の考えでは、義理は正しい道理として出発しながら、しばしば決疑論にまで身を落としたのである。義理はその両翼の下に、あらゆる種類の詭弁と偽善をかくまった。仮にも武士道に鋭く正しい勇気の感覚、すなわち敢為忍耐の精神がなかったとすれば、義理はたやすく臆病者の巣になり果てたことであろう。

○第四章「勇気、敢為忍耐の精神」

  • 勇気は、義のためにふるわれるのでなければ、ほとんど美徳の中に数える値打ちがあるとは考えられなかった。孔子は「義をみてせざるは勇なきなり」と説いている。これは言い換えると、「勇気とは正しいことをすることである」となる。
  • 死に飛び込むような無分別な行動、これをシェークスピアは「生まれの卑しい勇気」としたが、武士道においても、死ぬだけの値打ちのない理由で死ぬのは「犬死」と呼ばれた。
  • 剛勇、不屈、大胆、豪胆、勇気は、青少年の心に極めて容易に訴えかけ、鍛錬と模範で訓練できる魂の性質であるから、青少年の間で早いころから見習わせた、最も人気のある徳であった。伽羅千代萩においても、老女政岡がわが子千松を犠牲にして鶴千代君の危難を救う場面が出てくる。
  • 親は、時には残酷すれすれの厳しさで、子供のうちにある胆力を引き出す訓練をした。
  • 真に勇ましい人はつねに静穏である。彼が不意をおそわれて驚くことは決してない。江戸城の建造者である太田道潅が、刺客に槍で刺し通されたとき、刺客は次の上の句をよんだ。「かかる時さこそ命の惜しからめ」これを聞いて、息も絶え絶えの英雄は、脇の致命傷に少しも臆せず、下の句をつけた。「かねてなき身と思い知らずば」。

○第五章「仁、側隠の心」

  • 封建制の統治はたやすく軍事優先政策に堕落することがあるが、その統治下にあって私たちが最悪の種類の専制から救われたのは、まさに仁のおかげである。
  • 私は、どんな種類の専制をも断じて支持するものではない。そして、封建制を専制と一つとみるのは誤りである。フリートリヒ大王が、「王は国家第一の召使である」と書いたとき、自由の発達上一つの新時代が達せられたと法学者が考えるのは正しい。ふしぎなことに、時を同じくして、東北日本の辺地で、米沢の上杉鷹山がまったく同じ宣言を行い、封建制は決して専制や圧政ではないことを示した。封建君主は、その家臣に相互的義務を負うとはつゆ思わなかったけれど、自分の祖先や天に対して、いっそう高い責任感を覚えていた。こうして人民の世論と君主の意志、いいかえると、民主主義と絶対主義とが互いに融けあったのであった。

○第五章「礼」

  • 礼は、もし単に良い趣味をそこなうのをおそれてなされるだけならば、貧弱な美徳である。これに対し、本当の礼は、他人の感情に対する同情的配慮が外に現れ出たものと見るべきである。
  • 私が強調しようと思っているのは、礼儀の厳しい遵守の中に含まれている、道徳的訓練である。
  • 茶の湯の第一要諦である、心の平静、気持ちの静穏、行状の静けさと落ち着きは、正しい思考と正しい感情の第一条件である。争いに狂う俗世間の姿や騒音から遮断された小さな茶室の、徹底した清浄は、それ自体、人の思いをこの世から離れさせる。家具一つない室内は、西洋の客間の数えきれぬ絵画や装飾品のように人の注意を奪い去ることもない。趣味のこの上ない洗練こそ、目指す目的であり、これ見よがしのものは宗教的恐怖心をもって追放される。

○第七章「真実と誠実」

  • 真実と誠実がなければ、礼は茶番であり見世物である。

○第八章「名誉」

  • だいたい侮辱には、すみやかに憤激を返し、のちにみるように、死をもって報復された。それにひきかえ名誉はこの世の最高善として尊ばれた。富や知識でなくて名声こそが、青年の追求しなければならぬ目標だった。

○第九章「忠義の義務」
○第十章「サムライの教育と訓練」

  • 武士の教育で守るべき第一点は、品格形成であった。思慮、理解、弁舌といった精細微妙な能力は、目立たぬままにされた。
  • 頭脳の優秀はもちろん尊重されたが、知性を表すのに使われる智という語は、まず何よりも英知を意味したのであって、知識にはきわめて従属的な地位が与えられただけである。
  • サムライは本質的に行動の人だった。学問はその活動の境界外にあった。サムライは、その武人の職に関係ある限りで学問を利用した。
  • 武士道は非経済的である。それは貧しさを誇る。
  • 彼は金銭そのものをいやしむ。時代の頽廃を描写する決まり文句は、「文臣銭を愛し、武臣死を惜しむ」であった。
  • 銭勘定は、下役人に任された。多くの藩において、藩の財政は、下級のサムライか、お坊主がつかさどった。道理を弁えた武士は誰でも、金銭は戦いの頼みの綱をなしていることはよく知っていたが、金銭評価を徳にまで高めることは思いもよらなかった。

○第十一章「克己」
○第十二章「自殺と敵討ちの制度」

  • カイシャクという語と、英語の死刑執行人(エクセキューショナー)という語は同じ意味ではないことは注意を要する。この役目は紳士のつとめであって、多くの場合、咎人の身内または友人がつとめる。そして両者の関係は、罪人と執行人というよりもむしろ、主役と介添人との関係である。

○第十三章「刀、サムライの魂」
○第十四章「女性の訓育ならびに地位」

  • 日本女性の芸のたしなみは、見せるためや出世のために身につけたのではない。芸事は家庭での気晴らしであった。
  • 家庭中心こそ日本女性の教育の方針だった。

○第十五章「武士道の影響」
○第十六章「武士道は今なお生きているか」
○第十七章「武士道の未来」

  • 現在の綿密な軍事組織は、武士道をその保護下におくこともできようが、近代戦は武士道の継続成長にほとんど余地を与えることができないことは、もうはっきりしている。神道は武士道の幼時にはそれを養ったが、もうそれ自体老朽化している。古代中国の白髪の聖人たちは、ベンサムやミル流の知的成り上がり者にとってかわられつつある。
  • 精神抜きでは最善の道具もほとんど益にならない。最も近代的な教育制度も、卑怯者を英雄にはできない。断じてできない!