谷川健一『地名と日本人』講談社、1982年4月

■内容【個人的評価:★★★−−】
◎第一部「柳田学の継承と展開」
○「日本人の共通ベースを求めて」
○「柳田さんと私」

  • 自分の一生はいわば一つの大きな川の流れであり、いろいろな細流が流れ込んでいるけれども、全体としてみれば民俗学者としての柳田国男という人間の一貫した平穏無事な人生がそこにあったとしている。

○「創造の型としての柳田国男

  • 折口は日本人の集団的無意識を、南方は人類の集団的無意識を探った。これを結び付けるのが柳田の仕事だった。
  • 生態系の循環構造を見ると、水の循環があるおかげでエントロピー(ケガレ)を逓減することができるようになっている。柳田が考えたケとケガレとハレの循環構造に並行して起こる定住者と漂泊者の循環構造というものがあり、これに近い。
  • コロンブスの探検への出航後15日後に重要なことがあった。それは、ネブリハというスペインの文法学者によるイザベラ女王への文法書の提出である。これによりアメリカの土着民のヴァナキュラー・ランゲージが抑圧されることとなった。

○「柳田国男と歴史研究」
○「空間と場所」

  • 定住者としての村人の境を表すものが道祖神などの石の神であり、その先に漂泊者の世界が広がっているということだろうと思います。

○「風土論の展開」
○「柳田学と韓国民俗学

◎第二部「地名研究の現状と課題」
○「中世における東国と西国」網野善彦

  • これまでの研究から、日本列島の東と西がかなり異なる社会構造をもっていたのではないか、極端にいうと別個の民族が成立する可能性もあったのではないか。

○「むらの成り立ちと地名」
○「近世におけるアイヌ語地名の研究」
○「東日本と西日本」
○「柳田国男『地名の研究』をめぐって」

  • 国字、つまり地名独特の用字は、峠など中世以降に定着している。峠は古代は坂といった。

○第一分科会「現代と地名」

  • 千葉市幕張地区の埋め立て地について、打瀬網漁業が行われていた土地は打瀬、ノリの養殖が盛んな地域は道具の名前をとってひび野、ノリの品質向上のために淡水の流入が求められ、中瀬、大西、向瀬というところに井戸を掘りぬいたことを踏まえて中瀬、浜田川の河口を浜田、文教地区は若人が集まることを考え、若葉と命名した。
  • 沼南町では、大津川を見下ろす大地をすべて大津が丘としたが、小字をなくすのは忍びなく、公園の名前に残した。

○第二分科会「歴史と地名」

  • 城館に関する地名として「かいと」がある。畿内に多く、東に行くにつれまばらとなる。文献上は中世から近世にかけて多くみられる。「かいと」の意味であるが、畿内では何々組というような組の意味、伊那谷では屋敷という意味に使われている。柳田は土地の一画を意味するくらいにしか説明できないとしている。

○第三分科会「地理と地名」
○第四分科会「文学と地名」