塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社、2008年4月
- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/03/28
- メディア: 文庫
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- ルネサンスと-は、人々の見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発であった。そして、それは理解の本道である創造するという行為に結実した。
- 頭の中で考えていたことは、表現という経路を経ることによってより明快になる。
- レオナルド・ダ・ヴィンチは未完成の創作家といわれるほど、多くの作品を未完成のまま残した。頭の中の完ぺきな美と深さを自分の技量では表現できなかった場合、また逆に完成した姿が見えてしまったときに、未完成のままとしたのではないか。
- それまでの1000年間は、キリスト教会が人々の見たい、知りたい、わかりたいという欲望を抑えていた。信じる、という行為を強制付け、さまざまな創作の源にある疑うという行為を禁止したのである。
- ルネサンスは、詩人のダンテや画家のジョットーからはじめるのが常道であるが、それは歴史上の精神運動の芸術面での成果にのみ光が当てられてきたためではないか。本来はそうした土壌を形成した人として、宗教家の聖フランチェスコや政治家のフリードリッヒ二世から始まったと見るべきではないか。
- 戦争があれば人と物が動くこととなる。物を生産する手工業者と生産物を動かす商人、海洋都市国家は人と物の輸送を請け負い、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアは十字軍特需の最大の享受者となった。
- 高等教育には、もちろんプラス面があるが、既成の概念の叩き込みに終始してしまうというマイナス面もある。
- 宗教に対する態度としては、アテオ(無神論者)、クレデンテ(信仰者)、ライコ(神の存在の否定はしないが宗教が関与する分野とすべきでない分野を明確にする)があるが、ルネサンスはこのライコたちが起こした精神運動であった。
- ライコ精神は、法律の整備、官僚機構の整備、税制の整備、通貨の整備、大学の整備を行った。
- ルネサンスが中世の秋なのか近代の春なのかといったことには興味がないが、13世紀が境になったことは事実である。ルネサンスがイタリアで起こったことの背景には、法王庁との近接性、十字軍特需による都市国家の繁栄、異文化との交流がある。
- ユリウス・カエサルの言葉に、「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しかみていないという言葉がある」、1000年のときを経てこの言葉を見いだしたのはマキアヴェッリであった。
- 言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生まれる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。この意味で、「ルネサンスとは人間の発見である」としたブルクハルトの考察は正しい。しかも、言語が人間のものになれば、人間だからこそ感ずる微妙な感情の表現にも出場の機会が訪れる。こうして、イタリア語は民族の言語に成長していった。
- レオナルドやミケランジェロは、専門別に分けることが難しい「万能の人」(uomo universale)であった。ヴェネツィアでは、効率性を重視したから専門化したのではなく、ヴェネツィア派の絵画の台頭が、フィレンツェ派の成功の後を追ってなされたという事情による。専門化とは、相当な成果が上がった後で初めて効果を発揮できるシステムだから。
- フィレンツェでは、1348年のペストの流行で人口が3分の2に激減する。一方、ヴェネツィアでは波打ち際での防疫システムを確立する。東方からの船は船籍に関係なく潟(ラグーナ)の中にある数多くの島に停泊させ、ペスト菌の潜伏期間であるとされている四十日を過ぎた後でないとヴェネツィア内に入港させないと決めた。現代でも空港に着いた人は、「Quarantine」を通過しなければならない。検疫と訳されているこの英語は「四十日間」の意味であるヴェネツィア方言の「Quarantin」から来ている。
- 内部分裂が絶えなかったフィレンツェにようやく国内統一がなる1434年とは、メディチ家のコシモによる僭主政が確立した年である。政治の安定は、反対派を吸収することで国内統一を期す古代のローマやルネサンス時代のヴェネツィア方式か、二派に分かれて主導権を争った結果、勝った側が敗者を排除して国内を統一するという古代のアテネやフィレンツェ方式かのいずれかしかない。二大政党が選挙の結果入れ替わる方式は、二十世紀に入ってから達成されたもので、しかも現代でもなお数カ国でしか機能していない。
- メディチは専制君主であった。しかし、好ましい専制君主であった。英明な一人にリードされると、なぜか自由と秩序という二律背反も、手を結び合えるものなのだ。
- メディチ家による僭主政が機能していた60年の間にフィレンツェのルネサンスは最盛期を迎え、一世紀に一人生まれれば満足という天才が、丘に立てば一望できる程度の狭い市内で競い合っていた。
- 人間とはゼロからまったくの新しいものを作り出すことはなかなかできない。ただし、既存のものの中でも無用なものは捨て必要なものは生かすという再構築ならばできる人材は少なくない。コシモは、フィレンツェ共和国の再構築をした人である。
- コシモは、自身が高額所得者であったにもかかわらず、おそらくヨーロッパでも初めての累進課税制度を考え出す。収入に対して4%から33.5%の間の段階別であった。
- ヴェネツィア人の足は船である。とくに、帆船が主力であったジェノヴァと違って、ヴェネツィアの船は帆と櫂の双方を使うガレー船、櫂は、当時のモーターで、風のないときや港への出入りに役立った。
- コシモは学芸助成を行ったが、同時代人にいわせると、深く芸術を理解した人ではなかった。学問芸術の助成者には、自分自身の感覚や好みや視点に執着しない人の方が向いている。
- 哲学とはギリシア哲学に尽きるのであって、それ以降の哲学はキリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力の繰り返しであった。
- 宗教は信じることであり、哲学は疑うことである。唯一の原理の探求も、哲学では原理の樹立と破壊を繰り返し行うことによってなされるものである。ギリシア時代は多神教の世界だったので、神聖にして不可侵としなければ成り立たない一神教の規制を受けなかった。
- 1492年、メディチ銀行が破産する。これと同じ年に修道士サヴォナローラのフィレンツェ人の現世的な生活ぶりを批判する説教が火を吹く。この説教に、市井の人だけでなく、プラトン・アカデミーの知識人までもが屈した。すべての中心は人間であるという実にルネサンス的な思想を掲げていた人も転向する。画家のボッティッチェリも悔い改めた結果、歓喜から悲哀へと画風を百八十度変えてしまう。観念論は、別の観念論で向かってこられると意外と弱いものだ。この時期にフィレンツェのルネサンスは事実上終焉する。国外での仕事が多くなり、人材が集まっていたフィレンツェが、人材が外に出ていくようになる。
- バートランド・ラッセルは『Wisdom of West(西方の知恵)』で、ギリシア以前も以後も、これに匹敵するような地の爆発は起こらなかったとしている。二世紀という短い期間に、ギリシア人は芸術、文化、科学、哲学の各分野にわたって、すさまじい量の傑作を創り出した。
- レオナルド・ダ・ヴィンチは、「ペルケ、ペルケ、ペルケ(なぜ)」といいながら部屋の中を行ったり来たりしていたのだろう。万能の人といわれるが、何でもできた人ということではない。「なぜ」の解明に、あるときは芸術、あるときは解剖が適していた。
- 生命力(ヴァイタリティ)ならば子供でも持っている。これに意志の力が加わると、やる気、覇気(ヴィルトゥ)に変わる。これは徳、長所、力量、能力、器量を意味する言葉である。
- フィレンツェ的な心眼の象徴的存在はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ローマ的な心眼の代表はミケランジェロといえるだろう。
- ルネサンスは、宗教改革にまでは至らなかったので不完全であるという意見が日本では支配的であった。
- マキアヴェッリは、一千年以上の長きにわたって指導理念であり続けたキリスト教によっても人間性は改善されなかったのだから、普遍であるのが人間性と考えるべきである。ゆえに、改善の道も、人間のあるべき姿ではなく、減にある姿を直視したところに切り開かれてこそ効果も期待できるとした。一方、ルターは、神と人間との間に聖職者階級がいて堕落していたために人間性の改善に役立たなかったとする。マキアヴェッリは、聖職者階級がいなくなったら、信者の想いは神の想い、は放任状態となり、かつての十字軍のように理論武装をして略奪行為を行うことにもつながりかねない、許容限度の悪を残し、大悪を阻止しようとした。ルターに比べれば、この人々は人間の善意なるものに全幅の信頼をおくことができなかった。マキアヴェッリは、これこそが人間性の真実であるとしてユリウス・カエサルの次の言葉を引用している。「どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった」動機がよければすべてよしで突き進んだ人々が起こしたのが宗教改革ではなかっただろうか。
- ヴェネツィアが、なぜ新大陸に消極的であったのか。経済的にうまく行っており、新たな開拓の必要がなかった。
- スペイン人は海洋国家でもなければ海軍国でもない。このスペインがただ一度持った艦隊らしい艦隊である無敵艦隊も、無敵であったのは闘わなかったときだけで、イギリスとの間に海戦を始めたとたんに敗北を喫する。スペイン人にとっての新市場とは、交易をするということではなく支配下におくことを意味した。一方ヴェネツィア人はあくまでも対等な交易を行うことを目的としていた。
- フィレンツェくらい自国の頭脳の国外流出が盛んであった国もない。ヴェネツィアにはこうした現象がほとんどなかった。フィレンツェは1530年に崩壊し、ヴェネツィアは1797年まで存続する。
ルネサンスはフィレンツェ・ヴェネツィアなど都市の文化として花開いた。それほど広いわけではない土地に優れて考える人々が集まり、またその文学・芸術・諸学問・冒険のアウトプットを支援し、邪魔しない土壌が形成されていた。
ルネサンスはあたかもギリシャ時代のように、考え、疑問を持ち、何かを生み出す、といったプロセスを再起動した。個人の思想の営みとしてが変わっただけではなく社会制度の変革も伴っている。逆に考え方についてキリスト教的な枠組みというものがあり、これが人の誕生から死と天国までを説明してしまう状態であった中世では、大きくその価値観をはみ出すことはなかった。
文学は考え方であり、芸術は美であり、学問や冒険は真実を求める活動である。これらはすべてキリスト教により説明されていたものだったが、ルネサンス期には一人ひとりが疑問をもって考え直すという活動を行い、新たな形で(キリスト教的世界観もふまえて)生み出された。
マキアヴェッリのように現実としての人間を直視する態度、これはさまざまな活動の出発点になる重要な事柄であり、現代のわれわれにとっても常に念頭に置かなければならない考え方であると思う。