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内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫、2006年6月

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○たいへんに長いまえがき

  • 朝日新聞の「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない。」という論説をみて、確かに正しいけれど、だれにも届いていない空虚な言説であると感じた。メッセージを発信するとき、最優先に配慮すべきは、「そのメッセージが正しい」ということではなく、「聞き手に届く」ということである。
  • 若いころ、恋人に向かって「愛している」という言葉を使ったが、ふと、どういう心理的根拠があってこの言葉を発しているのだろうと考えてみた、覗きこんだ私の心の中にはがらんとした空洞が広がっていた。しかし、愛しているという言葉を使うことにより得られる効果は愛していたのだ。
  • オルテガは、敵とともに生き、反対者とともに統治することを市民の基本的な構えであると書いた。このような態度が欠けているのが我々の社会ではなかろうか。
  • 国益とか公益は規定しがたい。なぜかというと、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーであるかぎり、その人たちの利益も代表しなければならない義務をわれわれは負っているからである。反対者や敵対者も含めて集団を代表するということ、これが公人の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた自分の支持者たちだけを代表する人間は公人ではなく、どれほど大きな規模の集団を率いていても私人に過ぎない。
  • オルテガが暗に言っているのは、市民として正しくふるまうということは、ほとんどの場合、不快に耐えることだ、ということである。
  • 現実が複雑であるときは、話も複雑にするのがことの筋道というものである。
  • 私がこの本でやろうとしているのは「最近の若者の思考と行動」をリサーチすることではなく、逆に「大人の思考と行動」をリサーチし、若者に対してレポートとして提出するということである。

○第一章「はじめて大人になる人へ」

  • 同年齢集団の中に、自分を超える才能が見いだされなかったときには、静かな自足のうちに安らぐことになるだろう。
  • 教養とは、実体のないものである。教養は知識の量とは関係があるけれど、関係があるというだけで、知識の量そのものではない。教養の深浅は、自分の立ち位置を知るときに、どれくらい大きな地図帳を想像できるかによって計測される。
  • 漱石がこの雅号を選んだのは、孫楚が「漱流」とすべきところ誤って「漱石」としたが、周囲に対してこれでいいのだと言い張った故事による。つまり一度言い出したことは引っ込めない頑固者ということである。現代の我々には、こうした好尚は消滅した。また明治にあって二十一世紀になくなったもの、それは「早く爺になりたい」と願うことである。徒然草には、文体の揺らぎがないが、実は吉田兼好が二十代から六十代にかけて書きためた断章である。兼好は二十代ですでに爺になったふりをして書いたのであった。
  • この百年で日本人が失ったのは、「漱石」にみられるような、「今の私」をラディカルに揶揄する視点である。自分のみすぼらしい欲望や賢しさを自分で笑いのめすような笑いである。
  • 人間は、必ずその人が必要とするときに必要とする本と出会う、という確信を抱いている。ふと手にとった本こそがご縁のある本であるという信念を貫いている。私にとってはレヴィナスの本が一生を通じての本である。
  • 家庭の経済力がそのまま子供の学力差に反映し、新たな身分制が形成されつつあるのではないかという懸念を語る人がいる。しかし心配するには及ばないと思う。人間の知的資源には、先天的個人差というものがあって、いかに巨額の教育投資をしようと、周囲の支援や強制によって開発できる能力はそのうちのごく一部に過ぎない。人間がその潜在能力を爆発的に開花させるのは、やりたいことをやっている場合だけである。
  • 私が大学受験のときに愛読したのは山川出版社の『史料世界史』である。これはマルクス主義的な歴史観に基づいて編まれた参考書であるので、ただ一つの「歴史を貫く鉄の法則性」によって、世界史上のすべての出来事が「なんでそうなるのか」きちんと説明されている。私はこの教科書を一読したときの心からの感動を今でも覚えている。一読してこれはつくり話だということがわかった。しかし、つくり話であっても、因果の糸にきちんと貫かれている歴史書は、物語的連関なしに事実だけが羅列してある歴史書よりもはるかに暗記しやすい。
  • 正論家の正しさは、世の中がより悪くなることによってしか証明できない。したがって正論家は必ずや世の中がより悪くなることを無意識に望むようになる。世の中をより住みやすくすることよりも自説の正しさを証明することを優先的に配慮するような人間を私は信用しない。私が正論を嫌うのは多分そのせいである。
  • 自分がオリジナルだと信じて書いているものの大部分は、実は誰かのコピーである。私の主張の過半は、これまで誰かが述べたことを私が自分の寸法に切り縮めて模写したものに過ぎない。自分が他人の知見をコピーしておいて、他人にはそれを禁じるというのでは筋が通るまい。
  • 言葉の意味というのは徹底的に文脈依存的なものであり、引用はすでにしてオリジナルなのである。

○第二章「大人の思考法」

  • 人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくては済まされないという考えが支配的になったのはごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。「内面」は明治になって初めて出現した(文学史の教えるところでは国木田独歩の「発明」である。)
  • 政治的人間は、システムにとっての最適選択をするために「私」をできるだけ固定化しないように努める。アイデンティティの維持よりシステムの維持の方が自分にとってもみんなにとっても優先順位が高いからである。
  • 相手により、場所により、立場により、複数の人格を使い分け、そのつど別人であること、それによって公共性の高い目的に奉仕するということは、ほんの半世紀前まで、日本の大人にとってごく自然なふるまいだった。「自然」というより生き延びるために必須だったのである。アイデンティティを優先する生き方ができるというのは、私たちがそれだけ気楽で自由な政治的制度の内側で生きているということの結果である。
  • 今の日本は歴史的にみてそのような限定的にめぐまれた政治的状況であると思っている。平和ボケという言葉がよくネガティブな意味で使われるが、私は平和ボケしていられる社会というのは理想的な社会であると思っている。戦争状態にあるおかげで明晰であるより平和状態が続いて頭が働かないことの方が百万倍もハッピーなことである。
  • 面白い着眼点から深みのある考察に進むためには、資料的基礎づけと論理的な思考が必要である。二次資料ではなく一次資料そのものの研究は、現場に行き、現物をみる、本人に会う、実際に経験する、というフィールドワークをしなければ始まらない。論理的に思考できる人というのは、魚を三枚におろすのに、手持ちのペーパーナイフは使えない、ということがわかった後、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。つまり、自分の考え方を捨てて、他人の考え方に想像的に同調できる能力、これを論理性という。
  • 経験的に言って、職業選択というのは好きなことをやるのではなく、できないこと、やりたくないことを消去していったはてに残ったものをやるものだと私は考えている。つまり、はたから見て好きなことをやっているように見える人間は、好きなことがはっきりしている人間ではなく、嫌いなこと、できないことがはっきりしている人間なのである。
  • 自分自身に「社会人としての最低のライン」しか要求しない人間は、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。敬意というものは、他人から受け取る前にまず自分から自分に贈るものだ。
  • 自分自身を丁寧に扱う人は、それだけで他人から丁寧に遇される条件をクリアしている。自分の身体を丁寧に扱うとは、言い換えれば、自分の身体から発信される微弱な身体信号に鋭敏に反応するということだ。病気になる人、特に精神的に苦しんでいる人の住居はたいてい悪い場所にある。
  • 身体そのものは、身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して快楽としては感知することがない。身体毀損を快楽として享受するのは脳である。
  • 経済的自立は、当然ながら現行の経済システムに乗ることによってしか果たせない。現在の労働市場において相当額の対価を得るような社会的能力を持つことなしには果たせない。それなりの学歴、しかるべき職業的専門性だけでなく、訳のわからないことをいう人間とのネゴシエーション、異論との妥協、狭量な人間の偏見に対する寛容・・・そのような社会的器量は社会的ネットワークの中で重きをなし、相当額の賃金を得るためには不可欠のものである。経済的自立を基礎づけるのは、既存の社会的ネットワークの中に適切なポジションを占めるという事実以外にない。
  • 同じように精神的自立は人々からの敬意抜きには獲得しえない。精神的自立を果たした人とは、周囲のいろいろな人から支援を求められ、助言を求められ、依存され、共同的な営為への参加を繰り返し求められる人のことである。自立という言葉は、隷属がそうであるように、ともに同じ社会を構成している他者との関係の中でしか意味を持たない。
  • あらゆる世俗的幻想を唾棄したニーチェ的な自立は、高い地位も高い賃金も高い敬意ももたらさなかった。ニーチェほどの才能に恵まれない人間の場合、そのような孤立が幸福をもたらすことはきわめてまれであるといわなければならない。
  • 人権は人権、犯罪は犯罪である。それと同じように、売春は犯罪だが、売春婦の人権は適切に擁護されなければならない、という立論はありうると私は思う。しかし、多くの知識人はこういうねじれた話を好まない。まことに不思議なことだが、政治家や学者のような、社会的影響力を持つ人ほど話を簡単にしたがるのである。彼らは売春は犯罪だから売春婦に一般市民と同等の人権は認められないという硬直した法治主義の立場に立つか、売春婦の人権は擁護されなければならない。だから売春は合法化されるべきであるという硬直した人権主義の立場に立つか、どちらかを選びたがる。
  • 上野千鶴子が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を買う男を見下すことによって、相対的な誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは、彼女たちの身体を買うために金を払う男たちが、彼女自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的浮力を得ている。しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりにも脆弱だし退廃的なものだ。

○第三章「大人の作法」

  • 私は間違っていました、という涼しい宣言がどれほど物事の進行を促進し、私は間違っていない、という暑苦しい固執がどれほど物事の進行を妨げるか、これについてはみな熟知していることと思う。世の中には、議論の場において、とりあえず正しいことを言うことを結論を出すことに優先させる人がいる。正論を語る人は、正しさを正しさとして貫徹する構えそのものに意味があるわけであって、その正しさが多数派の同意を得られて物質化するかどうかには副次的な関心しか示さない。
  • 私のプリンシプルは私なりにはっきりしている。とにかく結論を出しましょう、ということである。
  • たとえば私の大学で、これから先子供の絶対数が減少するのであるから、大学もそれに合わせてダウンサイジングするのが至当である、という意見を私が述べた場合、当然異論を立てる人も出るだろう。これは正邪理非の議論で律することはできない。折り合いをつけるためには、私の未来予測は外れる可能性があるということを認めることである。自分の主張は間違っている可能性があるということを前提にして語ると、折り合いは存外スムーズに進行する。
  • 本当に適切な知的パフォーマンスを求めている人は、まず、おのれのバカさの点検から仕事を始めるはずである。
  • 文殊の知恵というのはできるだけ単純な話にすべてを帰着させるという意味ではない。そうではなくて対話的なモードを通じてできるだけ多くのデータを勘定に入れるということである。
  • 田口ランディさんは呪いの言葉として、「そんなことしてたらあんたはきっとダメになる」「うまくいかなかったら戻ってくればいい」「そういうことじゃ病気は治らないよ」「あんたは何をやってもダメな人ね」「おまえは男運が悪いな」「そんなことじゃ誰も友達になんかなってくれないわよ」「将来ロクなことはないね」を挙げているが、これらはすべて効果的な呪いの言葉である。それは心のひだに食い込み、ずっと後になってさえ、決定的な状況のときに不意に意識にせりあがってきて、その人の決断を食い荒らす。
  • 人は結婚する相手がいれば結婚するし、子どもができるなら子どもは生まれる。それがそうなっていないには複雑な理由がある。それをあえて問いかけることのほんとうのねらいは、答えを封印したうえで問いかけ、沈黙を強いることにある。このような絶句状況に他人を追い詰めることを好む人がいる。他人が自分の問いかけによって言葉を失い、青ざめ、うつむき、沈黙のうちに引きこもるさまを見て、ある種の愉悦を引き出すことのできる人がいる。
  • どこかで他人とのコミュニケーションの欲望には節度を設けるべきなのだ。
  • 愛するというのは、相手の努力で私が快適になるような人間関係ではなく、私の努力で相手が快適になるような人間関係を築くことである。

○第四章「大人の常識」

  • 私が国民国家について考えるときの一番基本にあるのは、国民国家という政治単位を無害化するために、どんな方法があるのか?ということである。国民国家という概念は、政治を考えるときの基礎的な操作単位であり続けるべきではないと私は考えている。国民国家よりも大きな単位や小さな単位をアドホックに基準にとって政治プロセスの分析や予見を行うことがいずれ政治学を領する常識になるだろうし、なるべきだ、と私は考えている。
  • ベトナムという国は、堂々たる青年を組織的に生み出すような成熟のためのシステムを有しており、我が国にはそのようなシステムがない。
  • アメリカ人は多くを破壊した。当時のベトナム国民の10パーセントを殺戮した。「でも、もう済んだことだからいいよ」とビン君はいう。一人の国民はその国を代表する。

■読後感
この本を読んでいると、橋本治さん(この本の巻末の「解説」を、通常の解説とはまったく異なる形で書いている。)の著書を思い起こさせる。ありふれたことに対して、「ホントにそうか?」という疑問を持つ人である。また、「わかったフリ」はしない、分からないものは分からないと言える人である。
言説がもっぱら伝えるべき相手に伝わらず、内輪の了解に終始してしまう現状を冒頭で述べているが、卑近ではあるけれど日常的な会話こそまさにそのものではないかと思われる。意見の合う者どうしが集まって「そうだそうだ」と同意したとしても、それは私人としての営みに過ぎない。
職を選ぶとは、やりたくないことを捨てて残ったものを選ぶことであり、経済的自立とは経済システムの一部に組み込まれることである、ということ、「自分探し」ブームの中で見つめなければならない、実にそのとおりの真実である。
考え方の多くに「おお、そのとおり」と膝を打ちたくなる思いがする。何気なく見過ごしそうに行われている会話に含まれている「呪い」。一見、自信とプリンシプルをもって自説を通そうとする人が見落としている、オルテガのいう市民・公人の基本的立脚点である「弱き敵とともに生き、反対者とともに統治する」という考え方、そもそも正論とは論争の道具であり現実的な解決を導くものではない、という部分などである。
迷いながら考えている人、謙虚だが前向きな人への応援になる本。