小林正弥『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』平凡社新書、2010年12月

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○「はじめに」

  • 本書では、サンデルの全著作を取り上げ、それぞれに学問的解説を加えることによって彼の思想の全体像を描き出してみたい。

○序「新しい「知」と「美徳」の時代へ」

  • 対話や討論こそは、ソクラテス以来の伝統であり、現在でも例えばロースクールなどではソクラテス型メソッドと呼ばれる教育方法が行われている。対話や問答を通じて真実に近づいていくこと。これこそが、哲学そのものの原点なのだ。
  • 学生たちにも、予習などの準備が要請される。白熱教室では、学生たちはグループに分かれてティーチング・フェローの指導を受け、事前に文献を読むなどの準備をしている。
  • 哲学が人生や世界のあり方を考えるために重要な役割を果たすのと同様に、政治哲学は政治や経済を根底から考えるためには必須の学問なのだが、日本ではあまりにそれが知られていなかった。
  • 具体例だけ論じるのではなく、必ず抽象的な原理・原則と関連させて議論を進めるのも大きな特徴だ。印象的でリアリティあふれる具体例と、原理・原則との間の絶え間ない往復運動が弁証法的な方法であり、彼の政治哲学の大きな特徴である。
  • サンデルの主張する「コミュニタリアニズム」は、日本でいえば、小泉政権に代表されるネオ・リベラリズムに対するオルタナティブなのである。
  • サンデルが東大講義で最後に述べているように、このような対話や議論は、東大安田講堂ハーバード大学だけで行われうるものではなく、広く社会一般で多くの人々が行いうるものである。
  • 政治哲学や法哲学を復興したのはジョン・ロールズ(1921-2002)というハーバード大学の哲学教授であり、彼が今日のリベラリズムの基礎を築いた。また、ロールズを批判したロバート・ノージック(1938-2002)は、リバタリアニズムの創始者であるが、彼もまたハーバード大学の哲学教授だった。これにたいして、ロールズらを批判したのが政治学教授のサンデルである。
  • 日本における戦後の知のブームについて考えてみると、早い時期にはまずマルクス主義の流れがあって、左翼的思想が隆盛を極めていた。この系譜において、最近まで思想界の中心にあったのは、ポスト・モダンといわれるようなフランス系の現代思想であった。しかし、ポスト・モダン思想においては、「私たちはどう生きるべきか」「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見いだすことはできないように思われる。そもそもポスト・モダンは、そういった理想や真理の体系を批判するところに生まれた知であるからである。原理的に理想を見出せない思想は、いわば知の自殺行為とも言えるのではないだろうか。
  • 日本では法哲学の講義があり、法哲学の専門家は相当数存在している。しかし、やはり法を中心として考えるので、結局、権利や法的手続きなどが議論の中心になってくる。
  • サンデルのような政治哲学は、白熱教室で言われているように、日常生活の自明性を揺るがすが、決して懐疑主義的な哲学ではない。懐疑主義的な哲学では、いろいろな議論をしたあげくに、結論はない、とか、どうすべきか、ということについては哲学では言えない、といったような議論で終わってしまう。
  • 政治哲学と政策研究を往復すること、サンデルがいうように原理と実例を往復することが大事なのである。
  • サンデルの政治哲学の核心は「善ありし正義」というところにあり、それは美徳を促進する正義である。これは西洋においてはアリストテレスをはじめとするギリシャ道徳哲学の伝統に源泉を持つが、東アジアの儒教的伝統とも通底する。

○第一講「「ハーバード講義」の思想的エッセンス」

  • 彼の中心テーマは正義と善との関係であり、善に対する正義の優位を説くリベラリズムの政治哲学を批判している。
  • サンデルは、まず正義を考えるための方法として、次の三つの考え方の説明から始めている。
  • 欧米ではこれまで1や2の考え方が主流であったが、サンデルは3の美徳を中心とする考え方の可能性を示している。ハリケーン後の商品の便乗値上げの例でいえば、不正義に対する怒りや、経済的問題において強欲は正義に反するという感覚は、美徳や品位に関わるものであり、正義は美徳や善き生と深い関係にあるとする3の理論でこそ説明できる。
  • 現代の主流派経済学の基礎にあるのは、喜びないし快楽を効用とする功利主義の考え方である。今日では、精緻化され洗練されているとはいえ、ミクロ経済学で最初に学ぶ効用関数などの考え方は、功利主義の枠組の中に位置しているといえる。
  • サンデルの持ち出す事例、「救命ボート」事件における、3人を救うために1人の衰弱した乗組員を食料にするという決断、これは結果から考えると一人の犠牲で三人が助かったのだから功利主義的には正しいことになる。しかし、人間には当然生きる権利があり、そして他人を殺してはいけないという義務があるという見解(自由型正義論)と対立することになる。
  • 政策決定の現場でも、功利主義はよく用いられる。費用便益分析を利用して、タバコが原因で人々が亡くなる場合、生きている間の国家の医療費負担は増えるが、喫煙者は早死にするため国家の財政としては助かる。だから国家はタバコを禁止せずに吸わせ続けた方がいいというような結論が出されるなどはこの事例に該当する。
  • ベンサム功利主義を継ぎながら、その考え方に修正を施したのがJ.S.ミル(1806-1873)である。ミルは質の高い喜びと低い喜びの区別を試みた。
  • しかし、サンデルは、ミルの功利主義は、喜びに量的な違いではなく質的な違いを考慮するものであり、功利主義の枠を超えていると考える。
  • 自由型正義論は、哲学的には義務論と関係が深い。功利主義は、結果がもっと良くなるようにするという考え方なのに対し、義務論は、端的にいうと、結果に関わらず、これをしなくてはいけないからする、という考え方である。
  • 義務論の系列に、権利を基礎とする理論があり、リバタリアニズムはその中の一つである。リバタリアニズムという言葉は、人間をそれぞれ別の分離した存在と考えて、個々人の自由な意思を尊重するというところに由来するが、リベラリズムと区別するために、自由至上主義、自由尊重主義と訳される。私は自由原理主義と訳したい。自由の尊重という点ではロールズらのリベラリズムと同じだが、ロールズ的なリベラリズムとはことなり、政治的自由のみならず企業の経済的自由も重視する。政策的には市場原理主義ともいわれるほど市場経済を重視する思想である。
  • リバタリアニズムは、シートベルト着用法のようなパターナリズム売春防止法のように法律に道徳的な考え方を加味する道徳的法律、課税による所得や富の再配分を拒否する。このリバタリアニズムの代表者がロバート・ノージックである。
  • リバタリアニズムの考え方は、徹底すると自殺ほう助などを許容することになる。サンデルは明言はしていないがこうした面からリバタリアニズムの論理を支持できないとしているのではないか。
  • サンデルに従って大まかにいうと、ロック、カント、ロールズこそ、政治哲学における自由主義をつくった三人である。「人々が同意による契約によって政府をつくる」という社会契約論を主張したロックと、理性による自律的道徳(法則)を考えたカントは、近代自由主義の代表的な思想家である。そこにロールズを加えてこの三人を把握すれば、今日のリベラリズムの中核がわかってくる。
  • 自分以外の他者が決めた法則や規則に従って生きること、また自分の欲望や衝動に従って生きることは、他律的な生き方である。自分の理性で考え、自分で規則をつくって行動できるのが自律である。この考え方は人間の尊厳を強調することになるため、普遍的人権という考え方の基礎にもなっている。カントは、道徳原理の基準は、利害、欲望、選好などの経験的理由に基づくべきではない、飽くまで動機が重要と考えて功利主義に反対した。
  • ロールズの正義は二つの原理からなり、
    • 1.平等な基本的自由の原理:近代憲法自由権
    • 2−1.格差原理:格差は認めるが、その格差は最も恵まれない人にとって便益のある格差でなければならない。(完全な平等ではモチベーションが持続しない。経済発展が望めず、貧しい人も救われなくなる。)
    • 2−2.公正な機会均等原理
  • ロールズ的なリベラリズムには、「正義は善より優位にある」という考え方があり、「善き生の様々な考え方に対して正義は独立しており、政府はその諸観念に対して中立的であるべきとする」。しかし、サンデルは、世代を超えたコミュニティという意識と責務の感覚が必要であると考える。たとえばアメリカの原爆投下と謝罪の問題に関していうと、こうした意識のない「負荷なき自己」を批判し、正の善に対する優位性という考え方を批判した。このような批判者の思想はコミュニタリアニズムといわれる。現実には実際の人間は家族やコミュニティや国家など、さまざまな具体的状況を負っている「負荷ありし自己」である。
  • ラスデア・マッキンタイアによれば、人間は目的論的な物語の探求としての人生を生きる存在である。この観点からすれば、人間にはコミュニティの構成員としての責任が存在するから、普遍的な自然的義務や同意による自発的責務のほかに、構成員としての個別的な連帯の責務が存在することになる。
  • 特定のコミュニティの枠を超えて、私たちは対話により善を探求し、それとの関係において正義を探求することが必要になる。対話的・弁証法的論法は、サンデルの提示する政治哲学の方法であり、それによる「善ありし正義」の探求こそ、その新しい政治哲学、本来の政治哲学の目指す道なのである。

○第二講「ロールズの魔術を解く」

  • サンデルがしたことは、人を幻惑して人々の合意による正義が成立すると信じさせたロールズの魔術を解いたことである。
  • 社会契約論や功利主義、カント哲学などの考え方に基づく政治哲学は第二次世界大戦後には大きく衰退した。その理由は、経済学を始め社会科学に、自然科学の科学的方法が大きく入ってきて、コンピュータによるデータ分析が政治を考えるための方法となったことによる。
  • ノージックのようなリバタリアンは、治安や市場のルールの維持のためには国家権力は必要と考える。福祉などのためではなく、最小限国家を主張している。

○第三講「共和主義の再生を目指して」

  • 共和主義とは、簡単に言えば、公民的美徳に基づいて人々による自己統治を目指す考え方である。建国当初は重要であった共和主義が、南北戦争や革新主義の際には重要な役割を果たしたものの、徐々に衰退し、特に第二次世界大戦後はリベラリズムが制覇するに至った。サンデルは、望ましい公共哲学として、共和主義の再生というビジョンを示した。
  • サンデルは、共和主義の源流としてアリストテレスに注目している。アリストテレスの思想は、公民的美徳と政治参加という倫理面に注目する強い共和主義の典型であり、マキャベリの思想のような制度的な工夫を強調する弱い共和主義とは区別される。
  • 従来の政治思想史では、ギリシャやローマなどの古典古代の思想は、近代には衰退し、近代憲法の基礎となる政治思想はロックなどの近代社会契約論であるとされていた。これに対して、近年では古典古代からの共和主義思想の流れを重視するケンブリッジ学派が登場した。
  • 一口に共和主義といっても、二種類の共和主義のとらえ方が存在する。一つは公民的美徳のような倫理的要素を強調する見方で、ギリシャに淵源をたどることが多い。もう一つは、君主制や専制に対して自己統治を可能にするための制度的な工夫に注目するもので、古典古代では混合政体論がその代表であり、これはローマ的とされている。近代以降は、共和主義というと倫理的要素より制度的要素が強調される傾向にある。アメリカが共和国であるという時には、君主の不在というこの制度面に注目していわれている。サンデルが再生させようとしている共和主義は、倫理面を含んだ自己統治の思想である。

○第四講「遺伝子工学による人間改造反対論」

  • 生命は天賦のものだからこそ、それを強引に遺伝子工学によって改造ないし増強するようなことはすべきでない。様々な個性や才能がある子供が生まれてくるが、私たちはその子供たちを天与のものとして受け取り、無条件で愛すべきである。そこで私たちは謙虚と責任、そして連帯といった倫理を重視する必要がある。これがサンデルの思想的立場である。
  • アリストテレスの場合は、人間の生命も含めた自然全体の目的と秩序に則した善を考えている。

○第五講「コミュニタリアニズム的共和主義の展開」

  • サンデル自身も、コミュニタリアニズムの代表者と目されているが、コミュニタリアニズムからはリベラリズムに対して二つの批判がなされている。第一に、リベラリズムは個人の選択を強調するので、コミュニティ、連帯、構成員であることについて充分な説明を行えない。第二に、多元的社会では善き生について意見が対立しているので、市民が道徳的・宗教的信念を私的領域へ追いやり、政治的目的においては棚上げしている。

○最終講「本来の正義とは何か?」

  • サンデルはコミュニタリアニズムにおける善と共を、目的論的な善ありし正義と共和主義的公共哲学として発展させてきたと言うことができる。この双方を統合する理念が、コミュニタリアニズムにおける共通善であり、公共哲学で言うところの公共善である。

■読後感
卑近な例でいえば、経済の発展というものは、突き詰めると資本による労働の代替化、(本人が望むかどうかは別として)余暇の拡大ということになる。これは功利主義的には労苦が除かれてよい、ということなのかもしれないが、ごろごろと寝っ転がってゲーム、テレビ三昧、果たしてこれが人類の理想だったのだろうか、と考えるとかなり怪しいということになるだろう。
それはやはり物語としての、「善き生を主体的に生きる」ということが重要なのだろうから、カントのいう動機にはよくよく着目すべきであると思う。
具体的事例をふまえ判断させるところが妙味であるが、路面電車や救命ボートの例など、例がやや極端な事例とも思われる。実はより日常的な仕事などにもこうした判断を要する題材がいっぱいあるのではないか。
サンデルの目指す美徳ある正義(アリストテレス)は、ある意味武士道のような善き文学にも通じるところがある。それを自律的に、対話により生み出すとしているのだが。
ロールズのいう福祉国家像、これはわれわれの福祉国家の基礎をなしていると主張されているが、実態はちょっと違う。福祉を受けなくてもいい人も受けなければならない人も同じ扱いになってしまっているのがわれわれの福祉国家である。治療が必要でない人も病院に行く。最底辺の人々は病院には行けない。モデルが単純であるほど、わかりやすく、実態からは遊離してしまう。
欲望、欲求、われわれはそんなにいうほど欲望に従って生きているのか。論の立て方がやはり欧米的ではないか、日本ならではの白熱教室、サンデルのコピーではない、日本の考え方に則した白熱教室が必要なのではないか。この本もこれはこれでよいのだが、昔ながらの「学問」に引き戻されてしまった感がある。引き戻されると、結局使われない。やはり、サンデルの放った一の矢を分析することも大事だが、並行して必要なのはこれが熱いうちに二の矢を放つことなのだと実感する。突き詰めれば、正しいことを知ることが必要なのではなく、きちんとした議論を行うことこそ必要ということである。