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佐和隆光『虚構と現実』新曜社、1984年1月

■内容【個人的評価:★★★★−】
○はじめに

  • 既成経済学は以下の三点で非難されている。
    • 1.科学性の衣の下にイデオロギーという鎧が見え隠れしている。
    • 2.理論が現実離れをしている
    • 3.社会問題を解決するための処方せんがかけない
  • 経済学批判について省察してきたが、およそ次の点にまとめられる。
    • 1.経済学批判の背後には、ベーコン主義(帰納主義)またはポパー主義(反証主義)という素朴な科学観が侵すべからざる聖域として控えていた。こうした旧来の科学観に根源的な修正を図る必要がある。
    • 2.経済学の有用性は、医学や工学とは異なる。経済学者による政策提言は相対立する政治集団のいずれかの主張をたんに合理化するための方便に過ぎない。(これを積むことで旧来の社会通念を揺るがし、新しい価値規範の構築と浸透に加担する。)
    • 3.社会科学の理論は虚構である。これを現実のデータにより確証ないし反証するわけだが、本来、データにより理論の現実味を判定するのでなく、われわれの日常的感覚により判定すべきではないか。

○第一部「経済学の現在」

  • 近代経済学の理論の原型は、要素論的なものの考え方と、力学的世界観を背景として19世紀後半の西欧において形づくられた。つまり、近代経済学を象る基本的なものの考え方というのは、西欧近代科学のそれそのものにほかならないのである。
  • 昭和40年前後、近代経済学者は、「常識のウソ」を告発するという派手な役割を担っていた。いまや、近代経済学者の発言は、たんなる「常識の上塗り」ではないか、との批判をもうけかねない。
  • アメリカの経済学者レーヨンフーフッドの言葉を借りれば、多くの実証的エコノミストを底辺とするピラミッド(エコン族の階級社会)の頂点に、理論家はまつられていた。近年、こうした構造に様変わりが生じてきたのは、なぜか。先に引用した銀行エコノミストの口ぶりからもうかがえるように、「理論」があまりにも難しくなりすぎて、しろうとわかりがしないばかりか、専門家の間ですら、相互了解がしにくくなったことの結果である。
  • 近代経済学の思想構造というものを解剖してみると、アダム・スミス以来の市場万能主義と、ケインズ以来の政府万能主義のせめぎあいに集約されるのである。1870年代以降、主としてアメリカで彫琢されてきた新古典派の経済学が、市場万能主義に立脚する経済学であることはいうまでもない。
  • 経済自由主義の伝統の希薄な日本では、新古典派は二の次にして、もっぱらケインズ中心に、近代経済学の移入が始まった。すなわち、歴史的順序とは逆に、日本の近代経済学の移入は、まずケインズ経済学、次いで新古典派経済学という転倒した順序で行われた。いずれの経済学にせよ、それらの基盤となる思想構造の何たるかについては、さしたる配慮も払わずに、できあいの理論として、何の抵抗もなく移入されたのである。

○第二部「「科学」とイデオロギー

  • 科学的という場合、依拠すべき方法というのはカール・ポパー反証主義にほかならない。前提となる仮説の現実的妥当性にこだわらず、現実の観測値データによって反証することが可能な命題を仮説から演繹することが、科学者の日常的営為とみなされる。すなわち、科学の進歩は、憶説と反証との弁証法的連鎖によって達成される。
  • みずからの提唱する方法的立場を、自らの経済学的研究において意図的に実践したのは、一人フリードマンにとどまるといって過言ではあるまい。とりわけフリードマン恒常所得仮説は、反証可能な予測命題を導くという点で、経済学における反証主義の模範的実践と呼ぶに値するであろう。
  • 新古典派経済学は、クーンのいうパラダイムもどきの展開を遂げてきた。経済学の歴史を顧みるに当たり、それを規範的な方法の適用による進歩の歴史としてではなく、新古典派経済学者集団の事故保存の歴史とみた方が、学説史の正鵠をより的確に射抜くことができるのではあるまいか。
  • ベーコンの科学的方法論を短く要約すれば、自然科学を、経験的な事実を枚挙することによって帰納的に築き上げられる、蓄積的・漸進的・進歩的な知識体系とみなし、データの大群を知性によって整理したうえで、データによって確かめられた一般的原理の梯子を徐々に上っていくという正しい帰納法を、あるべき自然科学の方法とみなす。こうしたベーコン主義の立場に立って、科学・非科学間の線引きをおこなうとすれば、大半の経済学説は非科学の側に分類されてしまう。この線引きに応じて科学と認定される経済学は、おそらくケインズ経済学のみに限られるであろう。新古典派経済学にしても、ベーコン主義的な立場からみれば、消費者行動などにかんする任意勝手な憶断から出発する、経験的裏付けの薄弱な、非科学的経済学ということになる。
  • 論理実証主義の立場に立てば、新古典派経済学もまた、少なくとも形式上は、科学として有資格とみなされる。
  • 科学と非科学の線引きとして、反証可能という基準の採択を提案したのがカール・ポパーである。すなわちある理論体系が科学であるためには、演繹される命題が反証可能であることが必須の要件とされる。
  • 少なくとも私の知る限り、新古典派を批判してやまなかったラディカルズの論客たちのうちには、新古典派理論の導く何らかの普遍的命題を反証することにより、新古典派を倒すことをもくろむ、ポパー主義の実践者は見当たらない。
  • 実験科学におけるように、仮説検定を何度となく適用して反証の度合いを高めていくことは、経済学においては望むべくもない。
  • 新古典派にせよケインズ派にせよ、既存の経済学は無力どころか、良きにつけ悪しきにつけ、多大の社会的影響力を発揮してきたし、現に発揮しつつある。私にとっては、ケインズに経済学が、工学技術や医学と同じ意味合いにおいて有用であったという言説も納得しがたいし、他方、今日の経済学がケインズ時代のそれに比べて無力化したという言説も納得しがたい。要するに、経済学の有用性ないし有効性の決め手となるのは時代と社会の文脈なのである。
  • 経済学者の政策論が多かれ少なかれ有効であった事例を思い浮かべてみても、前向きの政策提言が奏功した事例は、私の知る限りでは見当たらない。その半面、現に行われている政策を批判し、その元となる社会通念に挑戦するという役柄において経済学者の政策論は、その有効性を存分に発揮してきたのである。
  • 60年代には、社会工学という造語がもてはやされた。工学技術が有人月飛行という偉業を成し遂げたのにならって、人間社会もまた、設計図通りのユートピアへと漸次的に改変しうるかのように言われた。

○第三部「「技術」としての経済学」

  • 経済理論の現実味というものを次のように考えるのが自然だと思う。前提となる諸仮定、用いる演繹的方法、そして導かれる結論の一切合財を合わせた、理論の全体像を、私たちの日常的知に照らし合わせたうえで、理論の現実味の多寡が判定される。
  • たとえば、60年代の高度成長期に格段の現実味を発揮した最適成長理論は、70年代の時代文脈の中では荒唐無稽なものになり果てた。

○第四部「素人の時代」

  • したたかな素人が専門家に、「あなたのおっしゃることを日常言語に翻訳していい直してほしい」と詰め寄った、と仮定してみよう。ほとんど確実に素人は、日常言語に翻訳された専門家の言説が、自明ないし常識の上塗りにすぎないか、もしくは現実を極度に単純化したうえでの絵空事であることを知らされ、まるでしらけた思いをするであろう。
  • 要するに、科学を生む基になるのは常識であり、逆に科学は常識を改変する威力を持つ。
  • カール・ポパーによって完膚なきまでにやり込められたはずの、ユートピア主義的にして歴史法則主義的な社会研究への情熱は、再生に向けての胎動を開始しつつある。そこにいたるまでの必要な経過点がほかでもない素人の時代なのではないだろうか。

■読後感
科学の現場で利用される、論理実証主義帰納主義、これは、政治哲学における自由主義功利主義の対比と似ている。
理論をふまえた経済政策は、いわばシナリオであるということ、まさにその通りと思われる。実社会とは別の想定上の社会を考え、ここでさまざまなアクターの行動と結果を推理する。まさに頭の中の実験室の所産であり、現実の社会ではない。実際の人間の行動は、これとは異なるがゆえに何十年たってもデフレから脱却できない、強化しようとする分野は弱くなるばかり、という悪循環が生まれている。制御可能なことはたしかにある。しかし、社会全体を、強制力なしに何らかの状態に移行することは難しい。それが何もしなくても実現することはありうる。経済学は「概ね」全体をとらえている。とらえる学としてはこれは有用だが、何かを実現するための学としてはそれほど有用ではない。
新古典派も馬鹿ではない。思想的背景としての自由主義だけが彼らの理論をつくっているのではなく、制御可能性というものをあまり信じていないのではないか。だから規制をできるだけ廃して純然たる経済を実現しようとする。ただし、この考え方についても、岩井克人の研究にもみられるように、一定の緩衝装置、制度の存在が市場の暴走を止める役割を果たしているという実態がある。
また、実態としての社会は、たんなる経済的動機のみで動くものではなく、それだけを取り出して論じることは実態との乖離を招く。