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内田樹『街場のメディア論』光文社新書、2010年8月

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一講「キャリアは他人のためのもの」

  • 適性と天職という発想そのものが実は最初の「ボタンの掛け違え」だと思います。適性と天職幻想にとらえられているから、キャリアをまっとうできなくなってしまう。
  • もともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。そういうことの順序なんです。
  • 与えられた条件のもとでの最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること、それがキャリア教育の目指す目標だと僕は考えています。
  • 潜在能力が爆発的に開花するのは、自分のためというよりは、むしろ自分に向かってこの仕事をしてもらいたい、と懇請してくる他者の切迫だということです。
  • よくポストが人をつくると言いますけれど、本当にそうなんです。

○第二講「マスメディアの嘘と演技」

  • メディアに関わる人間が、とりあえず事故なく放送することを優先し、何を放送するか、については副次的な関心しか持たない、というのは、やはりシステムの作りこみ方が間違っている。
  • 新聞社にとって、テレビは身内のメディアなんです。だから、新聞がテレビを批判することは経営者的発想に立つと難しい。そのことは僕にもわかります。でも、メディアがメディアについての批判を手控えたら、メディアの質保証は誰がやるんですか。
  • テレビの中で、ニュースキャスターが、こんなことが許されていいんでしょうか、と眉間にしわを寄せて慨嘆するという絵がらは決めのシーンに多用されます。その苦渋の表情の後に、ふっと表情が緩んで、では、次、スポーツです。というふうに切り替わる。僕は、自分が狭量であることを認めたうえで言いますが、この、こんなことが許されていいんでしょうか、という常套句がどうしても我慢できないのです。こんなことが許されていいんでしょうかという言い方には、こんなことには自分はまったくコミットしていませんよ、という暗黙のメッセージが含まれています。
  • 僕は、報道に携わる人間にとっては、こんなことが起きるなんて信じられないというのは禁句だろうと思うんです。知らなかったということを気楽に口にするということは、報道人としては自殺行為に等しいと思うのです。それは、世界の成り立ちについて情報を伝えることがメディアの第一の社会的責務であるからです。人々が、まだ知らないことをいち早く知らせるのがメディアの仕事であるときに、知らなかったという言い逃れが節度なく乱用される。

○第三講「メディアと「クレイマー」」

  • 僕はメディアが庶民の代表みたいな顔つき、言葉遣いをして見せるのはおかしいだろうと思うのです。
  • 自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、資源分配のときに有利になるかもしれないから、とりあえず被害者のような顔をして見せるというマナーが、ふつうの市民にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆるクレイマーと言うものです。自分の能力や権限の範囲内で十分に処理できるし、処理すべきトラブルについて無知・無能を言い立てて、誰かに補償させようとする人々がそれです。

○第四講「「正義」の暴走」

  • 患者さまという呼称を採用するようになってから、病院の中でいくつか際立った変化が起きたそうです。一つは、入院患者が院内規則を守らなくなったこと、一つはナースに暴言をはくようになったこと、一つは入院費を払わずに退院する患者が出てきたこと。
  • なぜメディアはとりあえず弱者の味方をしなければならないのか。メディアはその問いを多分自分に向けたことがない。そうするのが当たり前と思っていて、惰性でそうしている。そういう種類の思考停止のことを僕は先に「知的な劣化」と呼んだのです。理非を解明するプロセスで、メディアが推定正義を認めて支援した「弱者」が、実はそれほど正しいわけではないということが事後的に明らかになったことも当然あったはずです。けれども、そのときにメディアは私たちの推定は誤りでした、ということを認めない。その話はなかったことにして、次の弱者支援に話を移してしまう。
  • なぜ自分は判断を誤ったのか、を簡潔かつロジカルに言える知性がもっとも良質な知性だと僕は思っています。
  • 他人に仮借なく批判されればされるほど、知性の働きがよくなり、人格が円満になる、というようなことはありえないということくらい彼らにもわかるはずです。でも、自分には適用できないルールを他人には平気で適用する。
  • 僕たちが今読まされている、聴かされている文章のほとんどは、血の通った個人ではなく、定型が語っている。定型が書いている。
  • メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間伝えられているように、インターネットにとってかわられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人のどうしても言いたいことではなくて、誰でも言いそうなことだけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくたってだれも困らない、という平明な事実に人々が気づいてしまった。そういうことではないかと思うのです。

○第五講「メディアと「変えない方がよいもの」」

  • メディアは世論を形成し、世論を代表し、それによってビジネスとして成立している、そういうものではないのか、と。ぼくはそれが違うだろうと思います。世論とビジネスがメディアを滅ぼした。それが僕の意見です。
  • 世論というのは、だれもその言責を引き受けない言葉のことです。誰でも言いそうなこと、つまり、自分が黙っていてもどうせ誰かがいうのだから言っても平気なこと、であり、同時に、同じ理由で黙っていても平気なことです。
  • せめて僕たちにできることは、自分がもし世論的なことを言い出したら、とりあえずいったん口を閉じて、はたしてその言葉があえて語るに値するものなのかどうかを自省することぐらいでしょう。
  • 社会的共通資本という言葉があります。経済学者の宇沢弘文先生が使いだされた言葉ですけれど、人間が共同的に生きていくうえで不可欠のものを指します。自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本がここに含まれます。こういうものは政治にも市場にも委ねられてはならないというのが宇沢先生の主張です。言い換えるならば、人間が生きるうえで不可欠なものの管理・維持は、入力変化に対する感応の遅い、惰性の強いシステムにゆだねられなければならない、ということです。
  • 医療と教育は社会的共通資本に含まれています。ところが、医療と教育に関するメディアの論調を徴する限り、そこに伏流しているのはまったく逆に、変化するのは無条件によいことだという考え方なのです。
  • 社会制度の変化はよいことであるというのはメディアにとっては譲ることのできない根本命題だからです。何も変化しないで順調に機能している制度に無理やり手を突っ込んでも変化を起こそうとする。変化への異常なまでの固執。それは近代のメディアに取りついた業病のようなものです。
  • 市場原理こそが教育崩壊の主因であると僕はずっと主張してきました。この意見は教育現場では、教員の方たちからはかなり幅広く支持を得ていますし、教育行政官の中にさえ共感を示す人が少なくありません。でもマスメディアだけは例外です。マスメディアは僕の教育論を相手にしません。というのは、僕の主張は、政治家も官僚も、そしてメディアも教育には口を出すな、そういうことは専門家にゆだねておけということだからです。メディアがそのような主張を許容できるはずがない。

○第六講「読者はどこにいるのか」

  • 出版危機についてさまざまな議論をこれまで読んできました。そのすべてに共通するのは、読み手に対するレスペクトの欠如です。出版危機の原因は、ほとんど自動的に読者の側の責任に帰せられます。若い人のリテラシーが低下しているから、学校教育の失敗のせいで知的に劣化しているから、携帯や電子書籍のような電子ガジェットにすぐ飛びつくから、こういう説明に共通するのは、読者というのはできるだけ安く、できるだけ口あたりがよく、できるだけ知的負担が少なく、刺激の多い娯楽を求めているという先入観です。

○第七講「贈与経済と読書」

  • 近親相姦の禁止とは、ありがとうという言葉を誰かが言わない限り人間的な社会は始まらないということです。人間であろうと望むなら、贈与をしなくてはならない。贈与を受けたら返礼しなければならない。すべての人間的制度の起源にあるのはこの人類学的命令です。

○第八講「わけのわからない未来へ」

  • 今遭遇している前代未聞の事態を、自分宛の贈り物だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以ってそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。現実から目をそらしたり、くよくよ後悔したり、誰のせいだ、と他責的言葉づかいで現状を語ったり、まだ起きていないことについてあれこれ取り越し苦労をしたりしている人間には、残念ながらこの激動の時期を生き延びるチャンスはあまりないと思います。

■読後感
メディアの言葉の定型性、人間不在性については、役所もまさにそのとおりである。ただし、人間が存在すべきかどうか、ということについてはどうなのか。本来は歴史も踏まえ、こうあるべきということを組織として発するということではないか。それがメディア的ロジックと言語で塗りつくされている現状に問題がある。つまり考えているように見えて、実は定型の鋳型にはめるにはどうすればよいか、しか考えていない。評論家ではなく現場主義であれば、こうした語法にはならないはず。メディアには現場はない。「伝える相手」ではなく「伝える自分」しかない。
ニュースキャスターの紋切り型の「いわゆる正義」語り、これは少し客観的に自分たちを見る視点があれば、あんな滑稽なことはしないはずである。それが堂々とまかり通っているのは、本人のみならず組織としてもその滑稽さに気がついていないということなのだろう。
クレイマー論では、「弱者のふり」について論じられている。昔の言い方では「それでも日本人か」と諭されるということがあった(この言葉は頭ごなしではあるが)。よい意味での親心(パターナリズム)がどこかへ行ってしまい、だだをこねる子ばかりが残っている、ということか。