浅田次郎『カッシーノ!』幻冬舎アウトロー文庫、2007年8月

カッシーノ! (幻冬舎アウトロー文庫)

カッシーノ! (幻冬舎アウトロー文庫)

■内容

  • 目先の事象に対処するだけの知識が、人生においていかに無力であるかは、すでに周知であろう。多くの日本人オヤジに必要なものは、われわれを縛(いまし)めている日常と常識の打破である。要するに私は、ひたすら非日常と非常識を求めて、世界カジノ巡りの旅に出た。
  • 自己喪失の究極のかたちは自殺である。本来は青空をあおぎ、星を読み、地平を見はるかすべき人間の視野が、日々のあわただしさとまやかしの情報のせいで狭窄し、視点は限りなく後退し、ついには内奥の一点のみを凝視するようになれば、人は自ら死ぬ。その結果、年間の自殺者が交通事故死者の三倍を数える異常事態が現出した。こうした社会に生きるわれわれにとって、真に必要なものはなにかということが、本書の普遍的なテーマである。
  • ギャンブラーとは単純な博打好きのことではない。根っから投機的な性格を持ち、勝とうが負けようが生涯その道を捨てず、ギャンブルを趣味としてではなく仕事としてでもなく、信仰としている人々のことである。
  • 思うに博打の才能とは全く天賦のものであって、経験の積み重ねによって上達するということはほとんどない。その点、文章の上手下手というものは、天賦の才も多少あるにはあるが、修練と努力とが決定的にものをいう。
  • 博才とは何か。

1金勘定ができるか否か
2基本的性格
3生まれもった運の強さ

  • ヨーロッパ各地の都市型カジノは、様々の制約が多すぎて消滅したか、あるいはささやかな規模のまま成長できずにいるのだが、モンテカルロにしろラスベガスにしろアトランティックシティにしろ、リゾート併設型のカジノはそのアクセスとはほとんど関係なく大成功を納めている。
  • 今や労働は奉公ではなく、給与は小遣いではない。しかし今日の労働者の実態は、封建的徒弟制度とさほどかわりがない。すなわち、会社にたいしては滅私奉公し、女房から小遣いを与えられ、休暇は盆と正月にとり、暖簾わけのかわりに退職金をもらって生涯を終える。すべての国民は幸福を実感できずに死んでいく。
  • 子どもの目から見れば、くたびれているか酔っぱらっているかどっちかのお父さんというのは、いかに勤勉勤労であっても、やはり魅力に欠けると思う。
  • 祖父は菊花賞グリーングラス単勝馬券を握って死に、父は京王閣のスタンドで倒れた。
  • 日本人が総じて自己管理能力に劣っていることは確かであろう。完成された社会主義国家というか、巨大福祉国家というか、ともかく相互扶助と思いやりの精神によって、個人のハンディキャップばかりかミステイクまでもが救済されてしまうのである。
  • 親は子に存分な小遣いを渡す。学校は追試験を繰り返して生徒を進級させる。職場では往々にして、働き者の社員が生産性のない同僚の給料までも稼ぎだす。
  • ドストエフスキーの『賭博者』ギャンブルに嵌まって、理性と常識を失った人間の心理を、これほどリアルに表現した小説は他にあるまい。
  • わが身を省みても、ひまなときにじっくりと考えて書いた作品は、一定のレベルに達してはいてもさほど感心はせず、むしろ追い詰められた状況での仕事こそ、我が手になることを疑いたくなるような出来映えが多い。

■読後感
ギャンブルは、パチンコ屋や競馬場など、勝っても負けてもうら寂しいイメージがある。ただ、ラスベガスのような場は華やかさがあり一種の高揚感を味わえる。
今日本で、ここで描写されるような優雅な気分を味わえるところはどこだろう。一部の劇場か高級レストランくらいだろうか。
たしかに、日本では遊びイコール罪悪という見方はまだまだ根強い。他の社会を見る「遊び」こそは、こんな自殺者の多い社会の突破口になるはず。遊べば自分を客観的に見ることができるようになる。(どうしても自治体の行う自殺対策は、情報提供、相談窓口といったお決まりのものになりがちだが)