佐渡裕『僕はいかにして指揮者になったのか』新潮文庫、2010年9月

僕はいかにして指揮者になったのか (新潮文庫)

僕はいかにして指揮者になったのか (新潮文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • 僕は小学校の頃から演奏会にいくのが好きで、京都市交響楽団の定期会員になり、一人でチケットを買っては出かけていた。その当時から、演奏会に百回いけば、そのうちの何回かはわけもなく涙が溢れてくる凄い瞬間が来ることを知っていたのだと思う。
  • プッチーニのオペラ《蝶々夫人》の指揮をしたときのことである。蝶々夫人が『ある晴れた日に』のアリアを絶唱した直後、僕は金縛りにあったように指揮棒を降り下ろせなくなり、どっと涙が込み上げてきてしまったのである。
  • 僕の場合、演奏会をすると決まって体重が3キロは落ちてしまう。それだけ一回のステージで大量の汗をかくのだ。
  • しかし、決してパフォーマンスでグルグル腕を回したり、式台の上で跳び跳ねているわけではない。そのときは、とにかくその音が欲しいがために、また引き出したいがためにそうしているのである。人にどう見られるかというより、自分の音楽を表現しようとすると、自然とそうなるのだ。
  • とはいっても、クラシックの演奏会は、百のうち九〇までは退屈である。
  • ベートーヴェンの何が凄いのかと言えば、耳が聞こえないというハンディをものともせず作曲をしたことだと教えられる。確かに、それも凄いことではあろう。だが本当は苦しみや悲しみが音になって迫ってくるから凄いのである。
  • 悲しみにくれる人に言葉は無意味である。その人の心のなかには言葉が存在しているのでなく、悲しみのメロディが流れているからである。
  • 日本では、自分がどう感じたかよりも、周囲がどう感じているかを先に気にしてしまうところがあるのだ。

○第一章「僕が指揮者になったわけ」

○第二章「世界のオザワ、そしてバーンスタインと出会う」

  • 僕はそれまで、カラヤンのように静かに指揮棒を振るのが指揮者だと思っており、その立ち姿に惚れ込んでいたのだが、バーンスタインカラヤンのそれとは全く違っていた。最初に思ったのは、こんな指揮していいんか、ということであった。バーンスタインは口を開けて歌ったり、リズミカルな所は軽やかに踊ったりしていた。指揮台の上のバーンスタインは、よく動き、また跳び跳ねたりと、派手な動きをしていた。しかし、そのどこをとっても無駄な動きは一つもなかった。
  • 小澤先生は、こんなことを言った。「バーンスタインが、あなたのことを天才だといっていますよ。よかったですね。でもバーンスタインは、ユタカは、自分が棒を振ることで成功するのか失敗するのかということに関してすごく敏感になっている。それはいいことでもあり悪いことでもある。失敗を恐れず、音楽のために全身全霊を捧げられる指揮者にならなあかんっていってましたよ。」
  • 僕がデビューしてまもなく、小澤先生は、「いつまでもバーンスタインの真似じゃダメなんですよ。自分のもん作らなきゃいけないんですよ」と厳しい顔をして言われたことがあった。

○第三章「バーンスタインのもとに」

  • 今思えばこれがレニーのやり方だった。レニーは一度人をバシーンと蹴っておいて、その後誉めたり元気づかせたりして奮い立たせるのが非常にうまかったのである。
  • 音楽だけでなく、芸術に携わる人は、できるだけいい空間で生活をした方がいいというのが僕の考え方である。もちろん、節約するのに気を回したりすることもできれば避けたい。精神面だけでなく、金銭面でも生活が崩れていけばそこから音楽も崩れていくと思うからである。

○第四章「オーケストラで指揮したい!」

  • もともと僕は、コンクールやオーディションなど人が長い間してきたことに短い時間で合否を出したり順位をつけたりするようなことが大嫌いであった。そこに秘めた演奏者の愛情や労苦をまるで無視し、結果だけが重要だとでもいうかのようなことがは、特に音楽の分野では、まるで意味がないとしか思えないからだ。
  • 審査結果に不満だった僕は、表彰式が終わるや否や、審査員の控え室に納得のいく説明をしてもらいにすっ飛んでいった。しかし、審査員は君たちのような演奏は文化祭では受けるかもしれないけど、コンクールではダメだとか、採点表なんか零点になってますよというのである。僕は音楽に対する彼らのあまりの意識の低さにカーっとなり、審査員の顔めがけカバンを投げつけてしまった。控え室のなかは大混乱状態である。このとき問題を起こしてしまったために、結局その女子高の講師を辞めることになったが、いまだにコンクール嫌いなのは、このときの経験が強烈に残っているからである。
  • ホテルに戻っても惨憺たる練習の結果に落ち込み、理解できない譜面を開けるのが怖かった。指揮台にたつのも怖くなり、自暴自棄になって無茶苦茶なことをし始めた。喉が乾けばミネラルウォーターを何リットルもがぶ飲みし、お腹がすけば手当たり次第に山ほど食べた。腹が減っているときであればステーキを三キロは食べられる僕が戻してしまうほど食べ続けたのである。部屋が片付いているのさえ不満で、ごみは散らかしたまま、椅子やゴミ箱もひっくり返した。着ていたシャツやパンツを脱いで思い切り壁にぶつけ、残り物のハムやチーズまで天井に投げつけ、部屋のなかを手当たり次第に汚していった。

○第五章「指揮者というもの」

  • ヨーロッパにはどんな小さな街にもオペラハウスやオペラシアターがあり、戦争で街が崩壊してもすぐに再建され人々に愛されてきた。それは、そこに音楽、オペラがあるというよりも、人々が集まる社交の場、娯楽の場だったからだろう。ヨーロッパというのは、日本のように何チャンネルものテレビ放送があるわけではない。そうなると、家でレコードでも聞くか、街で唯一の娯楽場であるオペラを観に行こうということになる。

■読後感
凄い瞬間、たしかにクラシック音楽にはとくにそうした瞬間がある。(例えば歌劇『ノルマ』のアリア『浄き女神』)音楽は上質の文学だ。
この人ほど快男児という表現が似合う人もいないだろう。ハッタリもあるけれど、好きなことにのめり込んでいる姿が爽快だ。
何か求めるものがあって、それが確固としているだけにゆるがない自信のようなものと、天性の人懐こさを感じられる人だ。